世論時報よりインタビューを受けました
「経済」「効率」優先から「命」優先の選択へ

【世論時報】「経済」「効率」優先から「命」優先の選択へ/家族の命を守る呼吸住宅のすすめ【アイ・ケイ・ケイ株式会社】

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[ チャプターリスト ](目次)
0:00 挨拶
0:53 愛工房について
3:22 出口昭弘先生との出会い
5:42 非喫煙の会社になるまで
8:18 七田式教室について
11:05 奇跡の杉教室
13:43 呼吸住宅について
16:38 誰のための家なのか?
19:13 三鷹の住宅と愛工房の違い
20:28 最後に

世論時報3月号について

30年前の1991年、電気工事の会社で全社員(20名弱)非喫煙の会社が実現しました。アイ・ケイ・ケイの前身、「アイ健康と環境を考える会」を発足したのはこの3年前です。

求人の為に訪問する高校以外の高校や中学からも喫煙問題の講演依頼が多くなりました。私は、一人ひとりが選ばれた「命」であること、全ての「命」の大切さを訴えました。

1996年、キトサンと出会いました。キトサンのこと、それにその後の数年間の出来事を紹介した本が2003年に出版。船瀬俊介著「大地の免疫力キトサン」(農文協)です。この年(1996年)、キトサンを活用した農薬不使用の農業講習会で、講師をされていた「楽らく多収稲作革命」(あいぜん出版)の著者、出口昭弘先生と運命の出会いがありました。
その頃、九州各地で耳にしていたのが福を食い荒らす「ジャンボタニシ」の被害、稲作農家の敵、どうすれば「ジャンボタニシ」を効率よく殺せるかという相談もありました。出口先生の講演を聞いて、この「植干法」ならジャンボタニシを殺さずに活かせる、稲にも良いのではと直感、出口先生と主催者にお願いして九州各地で勉強会を開催しました。
除草剤、農(毒)薬を使用しない、「ジャンボタニシを生かして、活かす」農業を広めました。実行された農家は予想以上の成果で、「殺す」より「生かす」ことの大切さを実感しました。現地指導の際、先生は必ず「稲に開いたか」と皆に問います。この言葉は私の「たから」となりました。木材乾燥装置を開発した際、「杉」に開いて、45℃に迫り着きました。

私の父の先祖は熊本の八代、い草の産地、ここで50人を超える自殺者が出ていると聞き、船瀬俊介氏を団長として出口先生、農業高校の元校長と私、4人で「八代イグサ応援団」を結成。ある農家はキトサンとジャンボタニシを活かした無農薬のい草栽培に成功しました。

私は、無農薬のい草畳表として相当量を販売、あるお寺さんには200枚ほどを納めました。これらの一部は、2002 年船瀬俊介著「よみがえれ!イグサ」(築地書館)で紹介されました。1997年熊本の農業高校に畜産用キトサンを提供、畜産科学科で一番の問題である乳牛の乳房炎」の治療に抗生物質を使用せずに7頭全てが治癒。他に抗生物質を使っても治らなく廃牛を検討していた2頭も治癒。この成果については、『畜産コンサルタント』(中央畜産会)の 1998年 10月号に「乳房炎の治療に『キトサン』が効果的」で詳しく掲載されました。

3月号記事のAさんとの出来事は、キトサン関連を仕事にするかを模索中に起きました。現在の日本は世界トップクラスの発達障害大国です。原因の一つが、生活空間の空気です。虫たちの脳を狂わすネオニコチノイド系農(毒)薬、建材にはかなり多く使用されています。

これらは、経済優先、効率優先の産物です、国民みんなが犠牲者です。「きづき」ましょう。

「世論時報」4月号から毎月、身近な方が体験した、想いを込めたレポートが掲載されます。資材を供給している現役の方が気づいてからの苦悩を赤裸々に。ご購読をお勧めします。

(3月号)寄稿 私が働く目的は傍を楽にするためです

80歳で連載を始めさせてもらうことになった私の人生の転換点

伊藤好則 アイ・ケイ・ケイ株式会社 代表取締役

44歳で迎えた「はたらく」ことの転換点
 24歳を目前にした1965年1月、現在居住している東京都板橋区の地に辿り着きました。
 働き始めたのは15歳、大阪で3年余りの丁稚修業、航空自衛隊で3年間の勤務を含めて、11度目の職場が電気工事店でした。就職して丸5年後、電気工事業で独立しました。
 次の文は、2012年に発行した拙著『樹と人に無駄な年輪はなかった』(三五館)で記した一文です。
 「19歳で上京したものの身体を壊して、航空自衛隊に入隊。この3年間で身体を鍛えて、24歳前に再度上京。このとき考えたのは、あと1年間、見習いとして世の中のお世話になる。つまり、生まれてから25年間はまわりの人々に助けられて生きる期間。特に自衛隊にいた3年間、勉強や生活のために使われた費用はすべてが税金から。これからの働きで返さなければと思いました。
 そのお返しをする期間を25年間とすると、そこで50歳になります。つまり、ここでプラス、マイナスがゼロになるのです。60歳までの10年間は、『働きたくても働けない人のために働く』期間と考えました。60歳が近づいてきた頃、生きている間に自分がやるべきこと、自分にしかできないことは何だろう? それを探しました。(後記するAさんとの出会いはこの頃でした。)

 60歳を過ぎて電気工事を卒業した後に始めたのが、木材乾燥装置の開発でした。60歳までに出会った人、物、ものごとはすべて、私にこの乾燥装置をつくらせるためだったのではないかと思っています。出会ったすべての人、すべてのものごとに感謝したい気持ちでいっぱいです。
 60代で働くことは、それまでの知識、知恵、経験という財産を活かせること。
 60代で働くことは、いずれ自分が世の中の負担になる時期に備えた貯蓄だ。
 70代になって働けることは、働くことに喜びを感じて働くことにする。
 80代になっても働ければ、働けることの幸せに感謝して楽しく働きたい。
 人一倍子ども好きの私が44歳の時、子供を授からないことを宣告され、
その後の人生を受け入れました。その時が私の「はたらく」人生の折り返し点でした。
 88歳まで「はたらく」ことができれば、子供の分まで「はたらいた」ことになる。90歳で第二の卒業ができれば本望です。この世に生まれてきて、生かされてよかったと言える一人になれば本望です」
 以上が『樹と人に無駄な年輪はなかった』の中で「60代を大切に生きる法」の一節です。

Aさんとの壮絶な体験で気付かされた物事の本質
 世論時報の先月号(2月号)に掲載された「化学物質過敏症の私を救ってくれた杉」を寄稿してくださった大阪のお嬢さん、このご一家と出会ったことで私は救われたのです。
 寄稿文を読んでいるうちに、ご一家と出会う数年前の出来事が甦ってきました。それは、東京で開催されたシックハウス対策の勉強会で隣の席に居た50歳代の女性、Aさんとの出会いです。
 一通りの講義が終わると、Aさんから「家の中に居ると体調が悪く、最近新しい畳に入れ替えてから特におかしくなった、何とならないか」との相談です。
 私はこの少し前に、キトサン製品のホルムアルデヒド吸着除去剤を塗布する講習を受けていたので、その話をすると「是非それを使って助けてほしい」との懇願でしたので、数日後、伺うことにしました。
 当日は整髪料なし、着るものは極力化学繊維のものを避け、合成洗剤で洗ったものは着用せず、身の回りから化学物質の製品を排除して伺いました。その後、Aさん宅を伺う際はいつも同様の身だしなみにする必要があったので、準備が大変でした。
 作業の報酬は一切いただかず、費用は塗布後に効果があった場合、資材費
のみをいただくことにしました。
 作業の内容は、まず、室内の各所の空気を測定器「ホルムアルデメータ400」で測定した後に、ホルムアルデヒド吸着除去剤を塗布、1階の畳をめくって畳の表裏面と床面に塗布、それが乾いたのを見計らって戻し、壁面へも塗布。2階は壁面と天井面を塗布。全ての塗布が完了した後、1階の和室に扇風機を置いて風を送り空気を感じていただくと「気持ちいい」とAさんは大変満足のご様子でした。
 翌日、塗布後24時間経過したのを見計らい、各所を測定すると先日の塗布後の数値と殆ど変わりませんでした。クレームもないので一安心して帰着。
 すると、翌朝早くの電話で「塗布したものを全てはがせ」と強い口調での申し出がありました。伺って数値に異常がないことを示しても「数値は関係ない。私が辛いからはがせ」とのこと。持参した数本のタオルで壁、畳の表裏等、塗布した全ての場所を何度もふき取ってその日は帰着。
 翌日も、早朝に電話があり前日と同じ作業を繰り返しました。見えない敵と戦う辛さを味わいました。その日は、Aさんが用意していた粉を畳の下に撒き、渡されたフイルムで押さえ、一週間後にその粉を取り除く作業を指示されました。そして、次の言葉には驚かされました。「私が辛い目にあっている現状を『化学物質過敏症被害者の会』の仲間へ連絡するとお宅は仕事ができなくなるかも」と。
 また、かなり高額の空気清浄機のカタログを見せられて、購入することを要求され、それも飲むしかありませんでした。この時、私はとことん付き合おうと腹をくくりました。
 次に伺った一週間後の手帳には、「清浄機1台着く予定。1階、畳上げ、前回の粉を取り清掃、また粉を撒き、フイルム、壁3回清掃。2階、壁天井清掃午前11時20分~午後2時45分」とあります。腹をくくって待っていたのに、翌日以降、電話は掛かってきませんでした。
 その後もホルムアルデヒド対策の講習会には参加しましたが、Aさんとの一件は参加されていた皆さんには話せませんでした。体験したことがあまりにも重過ぎました。
 長年やってきた電気工事業、その卒業後の仕事としてホルムアルデヒド対策の仕事を一時は考えましたが取り止めました。考えれば気づくことです。測定器の示す数値が良くてもそこに住む人の体調が良くならなければ改善されたことにはなりません。
 こんな当たり前のことが解決されないのでは、人の役に立つ仕事にはならない。化学物質過敏症の原因となっている化学建材、それに何かを塗布する対処法では無理であること。あくまでも素材が大切であり、「素材の命」が大切であることを考えさせられました。このことがあって程なくして、木材乾燥装置「愛工房」を開発しました。

大阪のご家族一家が私を救ってくれました
 私はAさんとの一件があってからは、できれば「化学物質過敏症」の人たちとは関わりたくないと思うようになりました。また、多少人間不信にもなっていました。
 この状態を払拭してくれたのが本誌の先月号に寄稿された大阪の化学物質過敏症のご一家です。電話をいただいた当初はお断りする気持ちで聞いていましたが、ご主人の声、話に惹かれるものがあり、できるだけの協力をさせていただくことを約束しました。
 電話をいただいてからひと月ほどして、関西で講演会があり、講師で環境ジャーナリストの船瀬俊介氏と一緒に関西空港に近いお住まいへ伺い、当時一年生だった可愛い天使とも初めて会いました。
 その後もよく電話をいただき、ご自宅へも伺い、親戚同様のお付き合いとなりました。そのお蔭で、化学物質過敏症の方と接することへの不安が解消し、自信にもなりました。
 先月号の寄稿文の文中に、愛工房で乾燥させた木材で作ったベッドのことが書かれています。先月号の23頁で転載していただいた拙書の中でも詳しく紹介していますが、6年ほど前、黒杉ベッドを製作している会社の社長から、「担当者に不幸あったので、今後はベッドの製作ができない」との電話があり仰天しました。
 ベッドを使用された方からの反応も良く、注文も受けていた矢先の出来事でした。そこで、椅子やテーブルの製作を依頼している木工所の社長に来ていただき、一緒に考え、特許に抵触しない、より丈夫で安全な造りとなった現在の「黒杉ベッド」が誕生したのです。
 寝室内の空気が変わります。身体が緩み素敵な睡眠を、自信を持ってお勧めしています。

 私は、これまでに、多くの人・もの・ものごとに出会わせていただきました。出会っても、きづくか、きづかないかで人生が変わることを知りました。
 子どもを授からなかった私に60歳を過ぎて「愛工房」という娘を授かり、
70歳代に「杉ビル」という息子を授かりました。80歳になった今、月刊『世
論時報』で連載の場を授かりました。「それは人を幸せにしますか」これが私の「はたらく」(傍楽)目的です。
 世論時報4月号から「『経済』『効率』優先から『命』優先の選択へ」とのテーマで、新連載が始まります。「愛工房」と「愛工房」で乾燥した「杉」、その製品に出会った方々の体験を中心にお届け致します。この場が、読まれた方の「きづき」の広場になってくれるとありがたいのです。

‥‥‥期待しないで、‥‥‥期待してください。

『世論時報』8月号の特集 新時代に住みたい家」に掲載されました。

 経済優先から命優先への転換点 
「呼吸建材」が建築産業を健康産業に変える!

空気が違う!エアコン要らずの健康住宅
呼吸建材で建てた「個人住宅」

~東京都三鷹市~

夜間の徘徊者がいなくなったケアハウス
生きた杉でリフォームした「高齢者の住まい」

~栃木県宇都宮市~

ここから始まる木造都市の夜明け
生きた杉で建てた「子供の学び家」

~山口県山口市~

施工業者も健康になる家づくり
暮らす人も作る人も喜ぶ「オフィス」
~千葉県鴨川市~

「はたらく」のは権利

 

私は自分が働いているときに、幸せを感じます。
「はたらく」とは、自分が動くことで「はた」(傍)を「らく」(楽)にさせることだと思っています。

つまり、働くのは義務ではなくて、権利なのです。労働を義務と考えるからつらくなるのであって、権利と考えると一気に楽しくなります。

 私は、五十代に入ったころから、60歳からは本格的な「はたらく」をやりたいと考えていました。産んでもらって、生かしてもらって60年間、さまざまな人と出会い、勉強をさせてもらい、少しは知識も技術も身につけることができました。

 これからは、今までの経験を活かして「はたらく」。日本の子供たちや孫たちのために何かできるのではないか、いや、何かやらなければいけないという気持ちが膨らんでいました。

 船瀬俊介さんと講演で全国各地をまわって、地域のいろんな問題が見えてきました。出口昭弘先生に農業指導をお願いして一緒にまわっていたときも、それよりもっと前から九州の高校や中学校をまわって非喫煙運動をしていたときも、すべてが「人」「生命」「環境」に結びついていることに気付いたのです。

 問題の源が森林再生にあり、林業の活発化と安全な住まいの必要性、そのキーワードが杉の活用であることを知らされたのです。その杉が抱える大問題が乾燥にあることを知りました。

 日本の木、特に杉を生かし活かすための木材乾燥装置「愛工房」を開発させていただきました。次は「愛工房」を活用して杉の素晴らしさを知ってもらい、日本中の住まいに、公共の建物に、杉が使われることを夢見ています。そうなれば、おのずと日本の林業がよみがえり、森林が再生されます。

60代を大切に生きる法

 私の場合、19歳で上京したものの身体を壊して、航空自衛隊に入隊。この3年間で体を鍛えて、24歳前に再度上京。このとき考えたのは、あと1年間、見習いとして世の中のお世話になる。つまり、生まれてから25年間はまわりの人々に助けられて生きる期間。特に自衛隊にいた3年間、勉強や生活のために使われた費用はすべてが税金から。これからの働きで返さなければと思いました。

 そして、そのお返しをする期間を25年間とすると、そこで50歳になります。つまり、ここでプラス、マイナスがゼロになるのです。

 60歳までの10年間は、「働きたくても働けない人のために働く」期間と考えました。
 60歳が近づいてきた頃、生きている間に自分がやるべきこと、自分にしかできなことは何だろう?それを探しました。
 60歳を過ぎて電気工事業を卒業した後に始めたのが、木材乾燥装置の開発でした。
 60歳までに出会った人、物、ものごとはすべて、私にこの乾燥装置をつくらせるためだったのではないかと思っています。出会ったすべての人、すべてのものごとに感謝したい気持ちでいっぱいです。

 六十代で働くことは、それまでの知識、知恵、経験という財産を活かせること。
 六十代で働くことは、いずれ自分が世の中の負担になる時期に備えた貯蓄だ。
 七十代になって働けることは、働くことに喜びを感じて働くことにする。
 八十代になっても働ければ、働けることの幸せに感謝して楽しく働きたい。

 人一倍子供好きの私が44歳の時、子供を授からないその後の人生を受け入れました。その時が私の「はたらく」人生の折り返し点でした。88歳まで「はたらく」ことができれば、子供の分まで「はらたいた」ことになる。90歳で第二の卒業ができれば本望です。
 この世に生まれてきて、生かされてよかったと言える一人になれば本望です。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.272より

命に良い素材を施主が選ぶ時代に

建物は命を守る器です。経済や効率優先で建てる建物では一番大切な命を守れません。

私は、人の命、地球の命、木の命の大切さを当たり前のように訴え続けていこうと思います。

建物は基礎や構造体が頑丈でも、そこに住む人の命が守られなければ本末転倒です。

住まいは、住む人の命を守ってこそ住まいです。これが基本です。

赤ちゃんは超能力者です。命の危機を感じたら泣きます。

赤ちゃんが認めてくれる家は、安全な空気の家です。

ホコリを引き寄せる素材を使わない建物が、「本物の、健康住宅」です。

生きた素材が呼吸し、生き合う建物が「本物の、健康住宅」です。

安全な空気のある家「呼吸住宅」が、「本物の、高級住宅」です。

住む人が安心して命を預けることのできる建物が、「本物の、住まい」です。

住まいに使われる建材は、「命に良いものか、命に悪いいものか」で選ぶべきです。

住まいの中で、一番長い時間を過ごすのは、「寝室」です。

住まいの中で、一番大切な寝室は、「命を回復する」部屋です。

住まいの中で、一番大切なものは、「安全な空気」です。

今、私のところには、新築を予定されている方からの相談が年々多くなっています。
安全な住まいを求めてのことです。施主のみなさんが気づいてきました。
建物は命を預ける器。施主が勉強し、命に良い素材等を自らが選ぶ時代がやっと訪れました。

その中に、東京・中野区に2階建ての終の棲家を予定されているA子さんがいます。建物に使用するすべての木材を「愛工房」で乾燥した木材で建てたいとの目的で来られました。

私は、「部屋の間取りなど、そこに住む人、使う人が主になって計画案を書いてください。それを土台にして一緒に考えましょう」と言って進めました。

 「杉浴」にも再三参加されています。7月、熊本から帰ってから「杉浴」の参加者に「あじさい保育園」の話をしました。聞いていたA子さんは、株式会社シェルターから資料を取り寄せて勉強されたそうです。

打合せの最中、「伊藤さん、うちみたいな小さな建物はKES構法では建たないのでしょうね」と言われました。取り寄せた資料には、公共物件の大きな建物、住宅でも大断面の大きな建物が紹介されていて、延べ床面積20数坪の建物は見当たらないのですから、そう思われても仕方ありません。

 A子さんにしてみれば、できれば震度7に2度も耐えられたKES構法で建てたいとの思いを捨てきれずの相談でした。それと、木材は集成材ではなく「愛工房」で乾燥した無垢材を使いたい、この意向は変えられない、と言われました。

私はとてもありがたくA子さんの問いを受け止めました。じつは、私の方から勧めたかったことを施主から言ってきてくださったのです。

『木造都市の夜明け』
第3部 P.184より

嫌煙社長の禁煙講演活動

 全社員が非喫煙になったことで喫煙者と非喫煙者の職場における経済効果を数値に出してみました。すると、TBSテレビが早朝のニュース番組で放映しました。私が試算した数値と、ある労働組合での20万人を調査した数値とほとんど同じでした、とキャスターが話すのを聞いて、これには私が驚きました。

 NHKからの取材も何度かありました。1993年に埼玉県で開催された、アジア太平洋たばこ対策会議で「人材育成と職場の禁煙効果」を発表しました。

 このころになると、求人の目的で伺っていた高校やその周辺の中学校からの講演依頼がひっきりなしにありました。私は自分を育ててくれた人たちや社会に恩返しの時が来たと、仕事との都合が許す限り引き受けました。ただし、宿泊費、交通費などの費用は一切いただかないことを告げながら、講演を引き受ける際の条件として全校生徒と先生方全員の参加を申し入れました。そして、校長に必ず申し入れるのは、学校敷地内での非喫煙です。言葉は生徒に、心は先生に向けて話しました。

 講演で私は、生徒たちにも喫煙をやめなさいとは言いません。真実の情報を届けるだけでした。むしろ、子供たちにお願いに来たことを告げて、話を始めました。先生や親たちが知らないことをもし今日知ったら、両親や周囲の人たちにも教えてください、とお願いしました。

 タバコの話より先に、一人一人が選ばれた命であること、生命の大切さを訴えました。

 喫煙による健康への影響は、ガンになるリスクの話より、心臓病や脳に及ぼす影響を話しました。それよりも、喫煙者の親から生まれてくる赤ちゃんのオシッコから検出されるコチニンの話は相当ショックだったと思います。生まれた時からニコチン中毒です。

 また、タバコが地球環境を破壊している話には初めて聞くことで驚いたことと思います。
 WHO(世界保健機関)による当時の資料では、タバコの紙の原料や葉の乾燥などのために森林が毎年250万ヘクタール刈り取られていること。これは、九州全体の約半分です。

 火災の原因の第1位は放火で第2位がタバコの火の不始末。

 ただし、放火をした犯人が喫煙者かそうでないかの調査をしていることは聞きませんが、喫煙しない人でライターを持ち歩いている人はまずいないでしょう。

 森林火災も自然発火以外の原因はタバコの火の不始末がほとんどです。

 あるデータでは15歳から喫煙を続けた人の40%が50歳までに亡くなっていること。

 タバコ問題の会合で厚生省(当時)の部長から聞いたことも伝えました。喫煙が及ぼす健康被害について、大蔵省(当時)に行って未成年者への販売の規制ができないかと訴えた。すると担当の役人は、
「タバコの販売による税収は経済に貢献している。また、早めに亡くなってくれると年金を払わなくて済む。まして、若いころから喫煙をするということは、早くから税金を納めてくれる。こんなありがたいことはない」
こう言われたというのです。

 私は、講演の費用をいただかない代わりに、生徒たちからの感想文をいただきました。「あとは、私に任せてください」と書かれていた感想文を見た時は、お金をいくらもらうことよりも大きな「たから」をいただいた気分でした。

 余談になりますが、母校の中学校で講演した時は忘れられません。
 それは私のことを気にかけてくれて、在校中だけではなく、心配して大阪の丁稚先にまで来てくれた当時の校長先生が、講演する数ヶ月前に亡くなったからです。私を見守ってくれていた父親同様の先生は、東京で車で1時間とはかからない場所に住まわれていたので、よく伺っていました。私に「男がいったんやろうと決めたら、最後までやり通せ」と在校中に教えてくれた先生でした。

 この先生と同じ沖縄出身の、もう一人の先生の教えも私の財産の一つです。
小学五年生の時、世も明けない頃から天秤棒を担いでアサリ貝を売っていた時期、学校に行けない日が多かった頃、登校した日の授業時間で「天知る、地知る、我知る」という言葉を知りました。先生は、「悪いことをして他人はごまかせても、天と地と自分自身はだませないんだぞ」と私たちに教えてくれました。それを聞いていて子供心に「どんなことをしていたって恥じることはない、天と地それに自分はちゃんと知っているのだから」と孤独であった自分への慰めとして理解しました。そして、一生の宝にしようと思いました。

 その後、こうした言葉のおかげでどれだけ救われたことか知れません。私を育ててくれた先生方に報いるためにも、生徒たちの心に火をつける講演を心がけたつもりです。

 母校での講演の様子は、地元の新聞にカラーで大きく紹介されました。そのうえ、「嫌煙社長奮戦記」と題して、4日間連載されましたので、ますます講演の申し込みが増えました。

 

価値観を創るのは、いつの世も消費者

 タバコ問題をやってきたおかげで、私は一つのことを学びました。
それは1%でも消費者の意識が変われば、世の中が変わると言うことです。
20数年前と現在のタバコ事情を見ると、まさに隔世の感があります。新幹線では1車両だけが禁煙車両、あとは吸い放題、煙出し放題でした。それより前は、乗合バスもタクシーも乗客が喫煙しても当たり前、運転手が吸っても文句を言われることは、まずなかったのですから。

 今のような禁煙社会に変えたのは、企業でもなければ、行政でも政府でもありません。国民、つまり消費者が変えたのです。

「このままタバコを野放しにしていると、自分たちの子孫が危ない」
という思いが広がったから、社会が変わっていきました。
 だから杉の良さについても、みんなが気づけば必ず変わるという確信が、私にはあります。それは嫌煙活動と杉普及活動に共通点を見いだしているからです。
消費者に杉のすばらしさや高温乾燥材の危険性を伝えると、消費者は業界にいいものを求める。ひいては業界の供給側を動かします。

 社会を動かすのは、消費者です。逆に言えば、消費者が変わらないかぎり、正しい方向には行きません。私は愛工房を啓蒙して、この業界を変えるなんて大それたことは考えていません。気がついて調べて、愛工房にたどり着いた人だけを手伝ってあげたいのです。私は冷たい人間でしょうか?全員を救おうとすると宗教のようになるし、無理も生じる。人に押しつけてまで、自分の考えを広めたいとは思いません。
 それでも今後、消費者が自分で気がつく方向には持ってきたいという願いはあります。そのために必要なのは、情報の提供です。この本を執筆したのも、その取り組みの一つです。

 護るのは「杉」です。今まで、杉がいっぱいあるから、切り出して安く売るから買ってくださいと杉の生命を殺して、ダメな木の代表として取り扱っています。それより、杉の良さを引き出して、杉が素晴らしいもの、価値のあるものと消費者が知れば、杉の価格が現在のようにはならなかったと思います。

 経済優先、効率優先の陰で、生命は置いてけぼり。これは経済先進国の悲劇です。
 真実の情報を得た消費者が世の中を変えます。それがあなたであってほしいと心より思います。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.253より

まったくの無傷、奇跡の「あじさい保育園」

 この日、ぜひ行きたかったのが「あじさい保育園」です。「木山神宮」のすぐ近くでした。

 株式会社シェルターからいただいた資料によると、まったく被害がなかったとあり、これまで見てきた状況からは信じられないものでした。周辺の大きな被害を受けた建物と同じ軟弱な地盤に建っているのですから。

 関係者に確認したいと思いつつも、お忙しい最中、アポを取ることのほうが失礼との思いもあり、突然伺いました。

 園の敷地の中で立ち話をされていた方に挨拶をして名刺交換をすると、その方は理事長の前田晴重氏でした。来訪の用件を告げること数秒、「事務所へどうぞ」と案内されました。

 椅子に座るなり、前田氏のひと言に驚きました。
 「板橋区は一族が前から住んでいるところです。大野というんです」
 耳を疑うひと言でした。「愛工房」を設置し、生産工場として使用している高島平の建物の大家さんが大野さんだからです。2011年の11月に、前に借りていた建物の大家さんから突然出て行くよう言われて探し求め、翌年の初めから借りた建物です。なんだか身震いがしました。

 話が盛り上がり、午前11時ごろに突然お伺いして、気がつくと午後1時30分を過ぎていました。それから、建物内外の写真を撮らせてもらい退出したのは午後2時近くになっていました。

 建物の内外観の破損、被害はまったくない。空調機の室外機はもとより、外部の配管も外れたものやずれたものがないのには驚きました。周辺の惨状からはまったく想像できない光景です。

 なにより一番よかったのは、園の子どもたちの笑顔でした。子どもたちから声をかけてくれます。子どもたちからハイタッチもしてくれました。子どもたちから幸せをいただきました。

 前田氏の話の中で、お母さん方から「この園に子どもがいる間は安心」と言われて頂けるそうです。こんな園が全国に何カ所あるでしょうか。

 周辺と同じ軟弱な地盤に、震度7が2回、6強が2回、6弱が3回、それでも何ともなかった、という「あじさい保育園」の真実と情報がまったく伝えられていません。

 熊本市内に住む妹や姪たち、友人たち、もっと近いところで16日に南阿蘇を案内していただく、南阿蘇村に住み熊本市内に事務所のある九州中央経理の山本友晴社長、もっともっと近いところで、今日案内してくださっている藤本氏───。みんな私からの情報で「あじさい保育園」のことを知ったのです。

 これが現在の日本の情報の姿なのです。

 驚いたことに、震災後、テレビ局も園への取材は何度か来ているとのこと。それなのに、理事長が建物のことを話そうとすると、今日はそのことで来たのではないと告げられたと言います。いびつな情報伝達といえましょう。

 震災の惨状を知らせることは絶対に必要でしょう。ただ、大震災にも耐えたこのような情報も今後のためには必要です。たとえ取り上げる相手が広告を出す可能性がなくとも真実は伝えていかないと、マスコミは公共の役目を果たしているとはいえなくなります。インターネット時代の今日、あらゆる情報が一人歩きして広がるようになりました。テレビや新聞が自己都合を優先する調整された情報に甘んじていれば、近い将来必ず国民にソッポを向かれる日が来るはずです。

『木造都市の夜明け』
第3部 P.161より

私を変えた熊本時代の恩師

 熊本時代の私には、忘れられない二人の恩師がいます。

 東京の杉並区で生まれ、強制疎開で母の里、大分県の日田市に、その後、三重県の松坂市へ引っ越して終戦を迎え、父の郷里、熊本に伯父を頼って辿り着きました。父が生まれ育ったのは、い草の産地・八代ですが、そのころは、熊本市の一新小学校の正門の前で伯父が畳屋を経営していました。

 生活のために自ら決めた朝早くからの行商(アサリ貝売り)でしたが、順調に売れても学校の登校時間に間に合う時刻に家に帰ることが難しく、欠席する日が多かった小学5年生の夏、たまたま出席した日、「天知る・地知る・我知る」という言葉を、上里良蔵先生に教わりました。クラスのだれかが嘘をついたことに対しての説教だったのですが、私は自分なりに受け止め、この言葉はこの日から私の宝になりました。この言葉にどれほど励まされたことか、また、生き方を間違わずにこられたことか。今でも大切にしています。

 そしてもうひとり、西山中学校に通っていたときに出会った素晴らしい先生、又吉熊雄先生です。

 私が入学したときから卒業までの3年間、教頭をされておられましたが、卒業後も一生のお付き合いをすることになるとは夢にも思っていませんでした。2年、3年のときは、又吉先生の授業もありました。

 ある日、昼休みにソフトボールをする場所取りのため、グランドに行く近道としていつもと同様、教室の窓から飛び降りようとしたときのことです。その瞬間、すぐ近くに又吉先生の顔が見えたので、急いで教室のほうへ体を引っ込めると、大きな声で先生に呼ばれました。

 教室の窓から顔を出すと、又吉先生に「ここは君の通路かね。私に見られたからやめるのなら最初からやらんほうがいい。自分でやろうとした事は最後までやりなさい」と言われ、先生とクラスのみんなが見ている前で降りてグランドへ走りました。

 翌日から、窓から出ることはキッパリやめました。一生忘れることのない宝になりました。

 中学卒業の際、進路をまったく決めていなかったのは私だけでした。卒業したその日に職業安定所へ行き、紹介されたのが魚市場の仲買の店でしたが、すでに親戚の子が決まっているとのことでほかの仲買人を紹介されました。10日に一度、支払われる小遣い程度の給料で6カ月ほど働きましたが、母が下の妹と弟を連れて引っ越すことになりました。住む場所を求めて、新聞広告で寮のある仕事先を見つけて応募しました。

 上里先生は戦後沖縄から来られて小学3年生から卒業まで担任されました。中学でお世話になった又吉先生も沖縄のご出身です。このお二人に推薦文を書いていただいたお蔭で、1人の募集枠に採用されることができました。工員として働き、食べることや寝るところの心配のない生活を過ごせました。お二人の推薦状のお蔭だと感謝しました。

恩師の姿で思う、理想の人間の姿

 166頁で、大阪に行く決意を熊本城で誓ったと書きましたが、見えない力が導いてくれたかのように奇跡的なことが重なり、目的の丁稚になることができました。

 その年の8月のある暑い日、奥で商品のシール貼りをしていると、店の外に私を訪ねてきた人がいると言われました。でも私にはまったく心当たりがありません。外へ出てみると、なんと驚いたことにそこには又吉先生の姿がありました。その場でほんの少しの時間、何の話をしたのか記憶にはないのですが、とにかく嬉しかった。

 望んで覚悟して丁稚になったものの、仕事も生活もこれまでとはまったく違う世界の厳しさを味わっていたころでした。自分のことを心配して、見守ってくれている人がこの世にいることを知り、その後どれほどの励みになったことか。思い出すと、ありがたさに今でも涙が出ます。

 又吉先生は、私たちが卒業した年に西山中学校の校長になられましたが、同じ学校で長年教頭をされて校長になることは異例だそうです。私が独立し結婚したころには、先生のご一家は埼玉県所沢市に居を移しており、お宅へよくうかがいました。

 あるとき、大阪へ来てくださっとときのことを尋ねてみました。

 先生は夏休みの間、時間とお金の節約のため、通りがかりのトラックに乗せてもらいながら、生徒たちの就職先を訪問したそうです。なぜそうまでして、と聞くと「校長になって初めて送り出した子どもたちだ。高校へ進学した子どもたちは高校の先生方が心配してくれるが、中学校を出て世の中に出た子どもたちは、私たちが気に掛けてあげるのが当たり前でしょう。無理をしてでも多数の子どもたちと会いたかった 」とおっしゃいました。

 私は後輩たちの恩恵にあずかったことを知りました。そして、先生の懐の深さに触れて感銘を受けました。

 大人としてこうありたいと思いましたが、私には無理です。心に留めておき、そんな機会に遭遇したときはこのことを思い出して少しは近づけるようにすることと、あとは先生のご恩を忘れないことにしています。

 沖縄で生まれ育った又吉先生は、小学1年のときに父親を亡くし、その後は事情があって二人の伯母上に育てられたそうです。大恩ある伯母上から、「人様の大切な子ども。決して傷つけることのないよう、教育者としてこれだけは守るように」と忠告されたとお聞きしました。

 先生の奥様は先生のことを「感情で人を怒ったりしたことはありませんでした。どうすれば相手にわかってもらえるかをいつも考えて話していました」と話されました。

恩師の教えに感謝

 2013年の春の出来事は、又吉先生の教えがあったからこそ最良の方法を選択できました。

 それは10年ほど前からお世話になっている運送会社との出来事です。荷物を東北の荷受店に発送しておいて、当社から新幹線とレンタカーで引き取りに行ったところ、荷物が届いておらず、そのうえ、二重、三重のミスが重なり大変な迷惑を被りました。運送会社の本社社長と支店長に対して、経緯と内容の詳細書を書いて報告し、損害金の明細を添付して対処を求めました。

 投函した翌日、支店長が所員ひとりを伴って来所しました。支店長に初めてお会いしましたが、お相撲さん級の大柄な体を小さくしながら詫びの言葉を述べられました。

 私は不始末が起きた原因の検証、それにこれまでの若い担当者の態度に危惧していたこと、みなの日ごろからの仕事に対する姿勢が、担当者から始まり、ミスの連鎖を起こしたのではないかと話しました。今回のことは氷山の一角ではないかと思う、このままでは大勢のお客さんに迷惑を掛け、また、働いている人たち、企業のためにも悪くなる一方だとも伝えました。

 事実、品物が届かなかったために、当日と翌日、翌々日に仕事を予定していたお客様に迷惑を掛け、私は信用を失いました。当社として多大な迷惑を被ったことを訴えました。

 ひととおり話を聞いた支店長から、損害に対しての賠償額について打診がありました。

 私が「100」と言うと、支店長は一瞬、体を固くして息を呑んでいましたが、私が改めて、「100円で結構です」と伝えると、とても驚かれました。

 私は100円を提示した真意をゆっくりと心を込めて説明しました。また、10年近くもお世話になっていることに感謝していること、今後とも仕事をお願いすることを告げました。

 そして、担当者を替えないことを申し入れました。替えることでひとりの人格に傷をつけたくないこと、彼も貴社の大事な戦力のひとりであり、むしろ、彼が気づいて今後どう変わっていくのかが楽しみですから、と話しました。

 数日して支店長は、「お詫び状」と書いた書面を持ってきました。書面を見た私は、これでは受取れないと返すと、「お詫び状」の中の文章を変えて何度も通ってきました。そんなある日、私が求めているのは「詫び状」ではないことを告げました。
 2013年5月31日、私が待っていた書面を持ってきました。それが、以下の内容です。

「今後の進むべき道について」

 この度の納期遅れを起因とする当支店内の不始末につきましては、支店責任者として心からお詫び申し上げますとともに今後の支店運営に対し信頼回復に向け取組んでいく所存であります。

 今回の当支店の不始末において生じました貴社の損害金、290,074円に対して伊藤社長より解決金として100円とのご提案を頂きました。
 小職としましては驚きと戸惑いを感じましたが、100円を提案された伊藤社長の真意をご説明頂くにつれご厚情の深さと今後の責任の重さを痛感しました。同時に100円の数万倍の責務を感じた次第です。
 当支店の不始末により、顧客先への信頼失墜など、多大なご迷惑をお掛けしたにも拘わらず今後も西濃運輸をご利用下さることを明言される伊藤社長に心より感謝申し上げます。

 伊藤社長のご意向を全社員に伝え、小職を含め146名全員の確認印の書類を提出致します。一つのミスや手抜かりが荷物を預けられたお客様だけの迷惑に留まらず、大勢の方々に迷惑を掛け、信頼を失い多大な損害が生じることも、また、これまでに多くの先輩社員が積み上げてきた信頼をも崩してしまう結果になることを一人一人に訴え続けます。

 小職としましては、今回の不始末を教訓として、新・和光支店を築くにあたり、思いやりと誠意を持つ会社であり社員であること。
 初心にかえり、社員全員が責任と自覚を持つ職場として、お客様の大切な荷物を預かり、お預かりした荷物を確かにお届けする運送業に携わる仕事に誇りを持つように最大の努力を致します。
 お客様に信頼と安全をお届けする西濃運輸・和光支店と認められることが、今回の解決金100円に対する伊藤社長のご厚情にお応えすることと日々精進いたします。

 至らぬ点が多くありますが、伊藤社長には今後においても西濃運輸・和光支店を、暖かく、厳しく見守って頂き、ご指導頂ければ幸いです。

平成25年5月31日
西濃運輸株式会社 和光支店 支店長
森 裕之

当時の担当者は3年半を過ぎた現在も、この地区を担当して毎日がんばっています。以前の彼からすると別人と思うほどの気配りには満足しています。ほかの客先に対しても同様に対応していると思うと、無性に嬉しい気持ちになります。支店全体の対応も良くなったことを感じるのは、ひいき目からでしょうか。

 賠償金をいくらもらったとしても、この幸せは味わうことはできません。むしろ、地方からの発送などで困ったときにも最良の対処をしていただくなど、こちらが助けられています。損害を受けた金額よりも大きな徳を得ていることを実感しています。
 みんなが良くなることは最高の幸せです。
 又吉熊雄先生の教えに感謝です。

 

東京の杉並で生まれたこと、父の先祖の地、熊本で育ったことを、心から感謝しています。

 19歳に一度目の上京で1年あまりを過ごしたのが板橋、24歳を前にして再出発の上京の地も板橋、この板橋の地にすでに50数年の根を張っています。

 子どもを授からなかった代わりに「愛工房」という娘を授かりました。各地に嫁いで、しっかり働き、かわいがってもらうことを願って、我が娘、「愛工房」は送り出します。
 それに、木造ビルという息子を授かりました。この地に根を張り、各地から来られる方を迎えて、木造都市の夜明けを一緒に眺められること。最高です。

 誰もやっていないから、やる。まだまだ続きます。これからの出会いに期待し、一度しか味わえない人生を、みんなで大いに楽しみましょう。

『木造都市の夜明け』
エピローグ P.194より

 

世論時報8月号 特集「新時代に住みたい家」

経済優先から命優先への転換点

「呼吸建材」が建築産業を健康産業に変える

 戦後の日本社会は、経済優先、効率優先で動いてきた。林業も例外ではない。木は切り出した後、水分を抜くために乾燥させる。古来よりその方法は、自然乾燥だった。

 近年、効率を優先し、100°C前後の高温で、短時間で乾燥させる人口乾燥が主流となった。しかし、それでは木が死んでしまう。そのことに気付かされた伊藤好則氏(アイ・ケイ・ケイ株式会社代表)は、45°Cの低温で、木の酵素を生かしたまま、要らない水分を放出する乾燥装置「愛工房」を開発した。愛工房で乾燥させた木材は、本来の色、艶、香り、防虫能力、精油などを保ち、生きた木として活用できる。

 この「生きた杉」の存在を知り、全国からその杉を使って建物を建てたいとの声が上がっている。本特集では、生きた杉で作られた、①個人住宅、②高齢者の住まい(ケアハウス)、③子どもの学び家(幼稚園)、④企業オフィスの4カ所を取材した。それぞれが体感した生きた木の力チカラが、経済優先の価値観を転換させる大きなポイントとなるだろう。

(取材・文 立川秀明)

呼吸建材で建てた「個人住宅」~東京都三鷹市~
空気が違う!エアコン要らずの健康住宅

「設計図も施工業者も人任せにしない」が出発点

 東京都三鷹市の閑静な住宅街。大手ハウスメーカーが建てたであろうスタイリッシュな家が建ち並ぶ中、一軒の木造住宅が異彩を放っていた。

 木の色が濃く、ほぼオレンジ色と言ってよいくらい鮮やかな茶色で、なおかつ艶がある。そのせいで、周囲の家のグレーやベージュの外壁が、かなり地味に見えてしまう。

 家主の吉野文明氏はもともと健康に関心があり、三年前に池袋で開催された千島学説に関する勉強会に、講師として招かれた伊藤氏に出会い、低温乾燥装置による生きた杉の存在を知った。「ずっと木造の家に住みたかったけれど、木のことがよく分からなかったのです。伊藤さんの講演を聞いて、これだと思いました。しばらくして伊藤さんのオフィスを訪ね、生きた杉で自分の終の棲家を建てたい旨を伝えると、『自分の住む家なのだから、まず自分で設計図を描いてみて下さい。そして施工業者も自分で探して下さい』と言われました。最初、お話を聞いた時は丁寧な方に見えたのに、厳しい人だなと思い、考え直そうかと思いました」と吉野氏は笑う。

 建材メーカーの多くは、「お宅の建材で家を建てたい」とお客様が来た場合、付き合いのある設計屋や施工業者を紹介し、そこから紹介料をもらい、自分が主導権を握って商売したがるのが当然だ。しかし、伊藤氏はその真逆だった。「家は誰のための建物なのか、ということです。他でもない、お客様自身のための家ならば、まずお客様自身がどういう家にしたいか、どういう間取りの家に住みたいかを自ら考えて欲しい。そして、その工事を依頼する業者も、自分が信頼する業者を選んで欲しい。伝手が無い場合に限って、こちらから紹介するようにしています」と伊藤氏。

 吉野氏は、慣れない手つきでスケールと格闘しながら、何とか設計図を描き上げた。そして、地元の知り合いの工務店に「こちらで指定する木材で家を建ててもらえるか?」と尋ねると「是非に」との回答が得られ、無事に着工の運びとなった。

風を入れるとすぐに室温が下がる本物の木造住宅

 吉野氏に、この家に住んでみた感想を伺った。

 「とにかく空気感が違います。香りが良くて、温かみがあり、外から入る風が本当に気持ちがよいです。前の家では夜遅くまで起きていましたが、この家に住むと、日が落ちると眠くなってしまいます。そして、朝までぐっすり眠れます。眠れ過ぎてしまうくらいです」

 吉野邸を取材したのは7月の初旬で、すでに日中も30°Cを超す日が続いていた。しかし、エアコンを使ったのは、雨の日の風呂上がりの一回だけだと言う。

 木造の家は、温まりやすく、冷めやすいのが特徴だ。室温が上がっても、風が通るとたちまち室温が下がる。一方、鉄筋コンクリートの家は、暖まりにくく、冷めにくい。夜になっても日中の熱を貯め込んでしまうため、なかなか涼しくならない。

 そもそも、現代において、鉄筋コンクリート住宅が木造住宅よりも好まれる理由の一つは、耐震性の問題にある。どうしても、木造住宅の方が耐震性は弱くなりがちだ。しかし、木造住宅でも、耐震性を高める方法がある。

 伊藤氏は、その方法として、山形県山形市に本社を置く、木造建築の設計・施工会社である株式会社シェルターが開発した「KES構法」を吉野氏に勧め、今回の住宅には全面的にこの構法が導入されている。

 そして、吉野邸がエアコンを使わずに済むほど室内で快適に過ごせる理由は、生きた杉の効果に加えて、断熱材に使われている「フォレストボード」にもある。これは、秋田県にある白神フォレストコーポレーションが開発した断熱性と吸放湿性に優れた、自然素材100%の断熱材である。

 家中に敷き詰められたフォレストボードと生きた杉が作り出す空間は、本当に森の中にいるような空気を五感で感じさせてくれる。

 そして、住む環境の空気が良いことほど、健康にとって重要なことはない。現代の住宅の多くは、ほとんどの壁にはビニールクロスが貼られ、床にはウレタン塗装を施したフローリング材が敷かれている。

 それらの素材から、可塑剤という化学物質が揮発し、空気中に充満する。それを人間が吸って体内に取り入れると、体が「必要のないもの」と認識して排除しようとするが、自然界のものではないため、簡単には排除ができない。

 それでも賢明に排除しようとすることで体内の酵素を消費してしまう。

 その結果、免疫力が落ちて、様々な形で健康を害してしまう。

 また、木造住宅にはシロアリ対策で防腐剤を塗る。天然成分の防腐剤もあるが、安価な予算で作られた防腐剤が使われる。これも少しずつ揮発して空気中に出てきたものを人間が吸って、肝臓や腎臓がダメージを負い、風邪もひきやすくなる。

 これらの症状の総称が、シックハウス症候群と名付けられている。

家を建てるなら健康住宅

 「建築産業で働いている人達の中で、それが健康産業だと胸を張って言える人はほとんどいません。消費者が健康に良い住宅を求めるように変わって行けば、ハウスメーカーも変わらざるを得ないのです」と伊藤氏は語る。それに対して、同社の石原正博氏が次のように続ける。

 「工務店も含めて、ハウスメーカーの役員のほとんどは、自分の会社の家には住まないのは有名な話です。農薬を大量に使って野菜を育てた農家が、自分ではその野菜は食べないという話と同じです」

 こういった真実を伝えないメディアには大きな罪がある。

 家を建てようとする特に若い世代は、限られた予算内でどうやって家を建てられるかを考え、健康のことには目を瞑ってしまう。

 しかし、不健康住宅に住んだがゆえに、病気になり、医療費を払い続けた挙句、早死にしてしまったとすれば、結果的に金銭的に損をするだけでなく、金銭では買えない命を削ることになってしまう。

 空気中に、体で分解できないような化学物質が無ければ、余計な酵素は使わずに済み、体がよく休まるので、自然と疲労回復が進む。

 家を建てる際は、正しい知識を得た上で、健康を害する素材を使っていない健康住宅を、消費者が自ら選んで行かなければいけない。

世論時報8月号 生きた杉でリフォームした「高齢者の住まい」~栃木県宇都宮市~

生きた杉でリフォームした「高齢者の住まい」 ~栃木県宇都宮市~
夜間の徘徊者がいなくなったケアハウス

生きた杉はきっと消毒液に負けない

 宇都宮駅から、車で20分ほどの場所に、ケアハウスとグループホームの「エバーグリーンみずほの」はある。2006年にオープンした全50床のケアハウスは、10年余りが経過し、ところどころ劣化が進み、リフォームを検討しなければいけない時期になった。

 生沼氏は、環境問題に興味ががり、ある時、環境ジャーナリストの船瀬俊介氏の著書『奇跡の杉』を読み、低温乾燥させた杉の存在を知った。生きた杉の可能性にほれ込み、是非とも良い空気の中で入居者さん達に過ごしてもらいたいとの思いで、愛工房で乾燥させた杉を使ってリフォームを手掛けることを決意した。

 しかし、生きた杉を使おうと決めてからが大変だった。まず、他の建材よりも予算が割高になることに対して、経営陣は猛反対。また、施工を依頼する業者も「今まで、生きた木など扱った経験がない」と及び腰。通常、施工業者は、木材と言えば、高温で乾燥させたKD材しか使ったことがないのが当たり前だという。

 低温で乾燥させた生きた木は、吸湿能力があるため、施工を終えた後も、収縮したり膨張したりする。一般的なKD材と同じように施工すると、ゆがみが生じることもあり、クレームの対象になりやすいので、生きた木を使うことを業者はどうしても敬遠したがる。

 さらに、施設内は、次亜塩素酸やエタノールを使って消毒を施すことが法律で義務付けられているが、一般的に、木材は消毒液との相性が悪く、木材が消毒液に負けて劣化してしまうのではと言われてきた。それを理由に、「もし無垢材でリフォームすると言うなら辞めさせてもらう」と言い出す職員もいた。

 しかし、生沼氏は「生きた杉は消毒液に負けてしまうほど弱くない」と考え、それを証明するために、自ら消毒液を愛工房で乾燥させた杉材に塗布する実験を行い、その変化を観察したが、杉材に劣化などの影響が見られないことが確認できた。

洗浄液でできたシミを元に戻す生きた木の力

 生沼氏の必死の努力もあり、周囲も生きた杉への理解が拡まり、ようやくリフォームを開始し、最初に手掛けた厨房の休憩室を杉材で仕上げて間もなく、とある事件が起きた。

 毎年、エアコンの洗浄を業者に委託していたが、エアコンに吹きかけた洗浄液がリフォームしたばかりの真新しい杉の床材に落ち、その部分がまっ黒に焼けて変色した。

 洗浄業者もリフォーム業者も大慌てで、水や酢を使って懸命に拭きとったが変色は取れず、杉材の張り替えなどを考えながらしばらく放置していたところ、一ヶ月もしない内に、みるみるとその変色が消えて行った。木の酵素が洗浄液を分解し、きれいな細胞に生まれ変わったのだ。

 「木が生きているので、自分で自分の体を元に戻す力があることを、図らずも証明してくれたのです。同時に、今まで、当り前のように使っていた洗浄液が、どれだけ自然のものに悪影響を及ぼすか、生きた木がその身をもって教えてくれました」と、伊藤氏は語る。

 そして最も驚くべき効果は、リフォームを始め出すと、高齢の入居者で、それまでは夜なかなか眠れずに徘徊を繰り返していた方が、夜眠れるようになり徘徊をしなくなったという。天然の木材には、リラックス効果や睡眠の質の向上効果があることは、近年の実験でも証明されているが、目に見えた変化が現れ、生沼氏も驚いたと言う。

 リフォーム後の部屋を見た入居者さんは、木がふんだんに使われいる部屋に驚き、「昔のお金持ちの家はこういう感じだった。 こんな部屋に住めるとは思わなかった」と喜んでいるという。人生の晩年期を、生きた木に囲まれた環境で過ごせることは、得難い幸せである。

世論時報8月号 生きた杉で建てた「子供の学び家」~山口県山口市~

生きた杉で建てた「子供の学び家」~山口県山口市~
ここから始まる木造都市の夜明け

山のようちえん 森のようちえん

 生きた杉をふんだんにっ使ったすごい幼稚園が出来たと聞き、一路、山口県に向かった。JR新山口駅で下車し、徒歩10分ほど歩くと、街を一望できる高台に着く。そこに、真新しくかわいらしい、木造の建物達が群れをなして立っていた。

 

 

 入口に掲げられている看板を見ると、「山のようちえん」とだけ書かれている。インターホンを鳴らして、中に通してもらい、まず目に飛び込んできたのが、木材をこれでもかと使った木の部屋だ。そこで、子ども達が、積み木や電車のおもちゃで夢中に遊んでいる。

 その部屋からは、何とも言えない木の優しくて密度の濃い良い香りが立ち込める。子ども達がとても楽しそうなのは勿論だが、ただ楽しそうなだけでなく、どの子も穏やかな表情に見えたのが印象的だった。

 部屋の壮観さと、子ども達の様子に見とれていると、園長の片山耕修氏が温かく出迎えてくれた。

 「立派な建物ですね!」と言うと、「建物は立派でも、そこを管理する人間は立派ではなくてね」と微笑むその様子に、片山氏の人柄が感じられた。

 片山氏が園長を務める小郡幼稚園は、筆者が取材に訪れた5日前に竣工式を終えたばかりの真新しい「山のようちえん」と、そこからほど近い市街地にある「森のようちえん」の二つのキャンパスがある。

 森のようちえんは、小郡幼稚園の発祥地であり、園庭には先代の園長が植えた木々が生い茂り、全体の80%は木陰に覆われ、夏場は特に涼しく過ごしやすかった。

 しかし、市街地のため、土地が狭く子ども達の遊ぶスペースや、駐車場の問題などが常に課題だったという。そこで良い土地があればと探していたところ、今の土地が見つかった。

 新キャンパス建築の計画が進み始めた2017年、東京で開催された千島学説の勉強会で、片山氏は伊藤氏と運命的な出会いを果たす。低温乾燥させた杉材に大きな可能性を感じた片山氏は、その二カ月後、東京のアイ・ケイ・ケイ株式会社を訪ね、愛工房で乾燥させた杉の魅力を直接体験し、確信を持つ。

 ここから、現代における木造建築の、新たな可能性を拓く幼稚園づくりが本格的に始まって行った。

命の畑と秘密の田んぼ

 片山氏の、教育に対するどのような考えが元となって、このような木造建築の校舎が作られたのかを伺った。

「幼児教育は人間教育の基礎を培う大切な時期と言われていますが、実際は教育問題として扱われるのは小学校以降の教育です。幼稚園、保育園の間は、とにかく怪我をしないように、親も安心して預けられる場所であることが求められ、待機児童が何人いるかばかりが注目されていますが、肝心の教育の質に関して関心が持たれません。幼児教育の本質を一言で言うと『遊び』です。砂場と水があれば、子ども達は大喜びで遊びます。植物が育つのと同じで、お日様があり、風があり、そして、水と土があれば、しっかり命は育って行きます。自然に囲まれて、五感で自然を感じて欲しい。そういうことを心掛けた教育をしています」

 その言葉通り、敷地面積約3千坪の空間の中心には、子ども達が目いっぱい遊べる広々とした園庭が配置されている。そして、子ども達を見守るように、教室や事務室などの建物が、園庭の周りを囲む形で配置されている。

 

 五感を通して自然を感じられる場所は、園庭だけではない。片山氏が「ここがうちの園の命です」と言って紹介してくれた場所は、畑だった。「子どもは畑仕事が大好きです。毎朝、『畑仕事ありますかー?』と聞いてきます」

 子ども達が自分達で育てた野菜は、収穫後、給食のおかずとなって、子ども達自身に食べてもらうようにするという。それも、園内に植えた木の落ち葉や雑草などを集めて堆肥作りも並行して行なうという本格ぶりだ。

 畑だけではない。次に片山氏が「私の秘密の場所です」と言って連れて行ってくれたのは、なんと田んぼ。全ての土地を有効に活用したいとの思いから、教室裏の斜面を利用して棚田を作ったとのこと。水は地下水を利用している。

 「田植え歌を歌いながら苗を植える子ども達の姿を見て、ジーンときましたね」と片山氏。園長先生がこの場所に来ると、それを見つけた子ども達がたくさん駆け寄ってくるという。

子どものために木を使おう

 そして、山のようちえん最大のポイントは、何と言っても、地元山口の原木を3千本以上使い、そのほとんどを低温乾燥機で生きたまま乾燥させてできた杉材で建てた校舎である。

 全部で13棟ある教室を4区画に分け、それぞれ、光の棟、風の棟、水の棟、土の棟と呼称している。かつての日本人は『1,2,3,4』を『ひ、ふ、み、よ』と数えていたが、それは「光、風、水、土」のことを指していた。

 その中の一部屋に入ってみると、壁から天井まで全て木材が使用されている。特に壁に注目すると、12cm×18cmの一本一本が柱になり得る立派な角材を縦に並べることで柱壁が作られていた。この構法は『縦ログ』と呼ばれ、耐震性にも、防火性にも優れている。

 「通常のログハウスは、木材を横にして重ねて行きますが、これは縦に並べて行っています。木はもともと、立って生きています。なるべく木が自然の状態でいられるようにと考えられました」と片山氏。

 木材の伐採地にもこだわりがある。今回使用した木材のほとんどは、山口県の徳地という地域に集められた県産杉だ。この徳地の杉は、鎌倉時代に、戦乱で焼失した奈良の東大寺を再建する際に使われた杉である。その徳地で集積された丸太杉が製材された低温乾燥機の愛工房に運ばれた。子ども達の住まいが新たな徳地杉の生き場所となった。

 片山氏は、「小学生以上になれば、鉄筋コンクリートの校舎でも構わないのです」と話す。しかし、感受性が豊かな、幼児期の子ども達には、どうしても、木のぬくもりや、木の匂いの中で育って欲しかった。

 「木にはすごい力があるということは、もう皆知っているのです。文部科学省は以前から、文教施設をつくる際は木造建築を推奨したり、木造住宅は子どもの成長にとっても良いと発信してきました。多くの人は、今度家を建てる時は木で建てようと思うのですが、なかなか実行されません。それには予算や手続きや色々な問題があると思いますが、子どもにとって良いことが分かっているなら、木を使おうよ!

 というのが、私がこの山のようちえんを建てた理由の全てです。それだけです」

 子どもが幸せになることをなぜ大人がやろうとしないのか。終始、穏やかに話を聞かせてくれた片山氏が、その思いを語る時だけは、口調に熱がこもった。

 山のようちえんには、木造建築関係者の視察予定が今から入り始めているという。

 「ウチが作れたのだから、この幼稚園を参考にして、後に続く人達が出て来て欲しいです。後に続いてもらわないと、苦労して作った意味がありませんよ」生きた木が持つ力に、体感で気付く人が確実に増えてきている。木造都市の夜明けが、全ての命の源である山の口・山口の地から始まっている。

 

「山のようちえん」ギャラリー

 

 

 

世論時報8月号 暮らす人も作る人も喜ぶ「オフィス」~千葉県鴨川市~

暮らす人も作る人も喜ぶ「オフィス」~千葉県鴨川市~
施工業者も健康になる家づくり

最後の工程は住む人使う人が行う

 本誌の先月号(7月号)に、「呼吸する住宅はウィルスを抑制する」と題した記事を掲載した。内容は、千葉県鴨川市にある、創業1906年の観光土産食品製造・販売の老舗、株式会社亀屋本店が、低温乾燥させた「生きた杉」で、同社の事務所兼倉庫と同社社長(末吉晃一氏)の終の棲家を建築している様子を取材したものだった。

 本特集内で、「生きた杉」を取り上げる上で、その予告的役割の意味も籠めて、まだ建築途中ではあったが、無理を言って取材させてもらった。

 その取材から約一ヶ月経ち、「事務所兼倉庫が完成しました」との連絡を頂いたので、是非写真を送ってもらうようお願いした。

 末吉社長に完成した建物の感想を伺うと、次のように語ってくれた。

「中に入ると、本当に空気が清々しくて、気持ちが良いです。何よりこの建物は呼吸していて、生きているという点が、他との決定的に違うところです。呼吸を感じることを忘れずに過ごして行きたいです」

 この事務所兼倉庫を紹介する上で、特筆すべき点は三つある(伊藤氏が携わる建物には全て共通する点であることを補足する)。

 

 一つ目は、電気工事の配線を工夫することで、建物内の電磁波の発生を、最小限に抑えた点だ。これは、長年、電気工事会社を経営し、電磁波が体にとって有害であることを肌身で感じてきた伊藤氏だからこそ編み出せた技である。

 二つ目は、建物の最後の仕上げに、天然成分100%でできた木材の保護液「ハッピーウッド」を塗布した点だ。この保護液を塗布することで、木材の劣化を防ぎ、傷がつきにくくなる効果がある。そして、ユニークなのは、工事の最終段階として、このハッピーウッドを塗布するのは、施工業者ではなく、住む人使う人自身に塗布してもらうのが伊藤氏のこだわりだという。

 それは、「建物はあくまでもそこに住む人のものなので、建物を完成させる最後の工程を、自分の手で行うことで、その建物への愛着を増して欲しいのです」との狙いがある。

 

建築中に貼り出された一枚の通達文

 三つ目は、建築中に貼り出された一枚の用紙だ。

 その用紙には「当建物の建設に携わる皆さんへ」の書き出しで始まったいる。以下全文を記載したい。

 

 

「安全に留意し、無事故で竣工することを第一として携わってください。健康を損なうネオニコチノイド(農毒薬)入りの建材は一切使用しません。

 この建物で使用する木材は全て『国産杉』。45°Cの木材乾燥装置『愛工房』で乾燥した木の命(酵素)を損なわない、生きた『無垢材』を使用します。
生きた『無垢材』は現場の作業者へ、現場周辺へ、安全な空気を提供します。
生きた『無垢材』を使った建物は、最適な住空間と安全な空気を提供します。

 健康と環境に一番大切なもの、それは、きれいな空気、安全な空気です。

 スギ材、ヒノキ材のウィルスに対する試験結果、ウィルスの不活化、抗ウィルス活性値が高く、接触すると感染力のあるインフルエンザウィルスの数が減少することが明らかに。平成28年度『奈良の木で健康になる』実証事業で発表。

 タバコの煙は多くの有害物質を含み、周辺の空気を汚します。喫煙は(加熱式たばこも)当人だけでなく、周りの生命も脅かします。

当建物の建設に関わる皆さんは、建物内及び建物周辺での喫煙は(加熱式たばこも)行わないでください。

 この建物は、『アイ・健康と環境を考える会/アイ・ケイ・ケイR』の協力で、安全・安心の『呼吸住宅R』を、作業に携わるもの全員の協力でお届けします」

 住む人だけでなく、その工事に携わる人達全てが健康であってこそ、建築産業が健康産業に変わる。その本気の思いが強く伝わる文章である。

世論時報7月号 呼吸する住宅はウィルスを抑制する ~千葉県鴨川市~

建築産業は健康産業にならなければいけない
呼吸する住宅はウィルスを抑制する

これまでの常識を覆す木材乾燥装置

 平成31年2月号特集「森林大国の可能性」は、多数の読者から好評を頂いた。

 中でも常識を覆す木材乾燥装置「愛工房」を開発した伊藤好則氏(以下、伊藤氏)を紹介した記事に対して、「敬服した」「これはすごい」「感銘を受けた」との感想が寄せられた。

 木材乾燥装置「愛工房」の大きな特徴を簡潔に言うと、「45°Cの低温」と、「多湿」であることの2点だ。

 伊藤氏は、木が木の生命を損なわず、水分を出す最適な温度が45°Cであることに辿り着く。さらに、人は湿度が高いほど発汗が促されるので、木が放出する水分を活用し、湿度を高め、庫内の水蒸気量は制御装置で管理することにした。

 これは、木も人と同様の「生き物」だと考える伊藤氏が、木の声を聴きながら辿り着いた答えだ。しかし、現在の木材乾燥はこの真逆である。100°C前後の高温と、除湿した環境下で、短時間で一気に乾燥させる効率を優先した方法が主流となっている。それでは「木が死んでしまう」と伊藤氏は指摘する。

 「愛工房」で乾燥させた木材は、酵素をはじめとした油成分が生きているため、光沢があり、カビが生えず、虫にも食われず、香り高く、水をはじく。まさしく生きた木だ。

 この愛工房で乾燥させた木材を使って、住居やオフィスを作りたいとの要望は後を絶たない。

 今回取材に訪れたのは、千葉県鴨川市。創業1906年の観光土産食品製造・販売の事務所兼倉庫、そして社長の終の棲家を、愛工房の木材を使って建設中とのことだった。

 代表取締役社長の末吉晃一氏(以下、末吉氏)に、なぜそもそも二つの建物を建てることになったのか、そしてなぜ愛工房の木材を使おうと思ったのかを尋ねた。

 「今の事務所や倉庫は、海から至近の海抜0メートルに近い地点にあります。東日本大震災で津波の恐怖を目の当たりにしました。この地域は、たまたま直近の70~80年は無事でしたが、いざという時のためにも、事務所と倉庫のバックアップオフィスをも作っておかなければいけないなと。愛工房の素晴らしさは、かねてから船瀬俊介氏の講演会や著書『奇跡の杉』を読んで知っていたので、是非この機会に、愛工房の木材で作りたいと思いました」

 当初は、事務所兼倉庫のみを建設する予定だった。しかし、移転先の地主さんとの交渉の結果、田んぼを造成した土地に建物を建てざるを得なくなった。手続き上、農地を宅地へと転用するには、いくつものルールがある。その一つが、元の農地面積に対して22%以上の建物を建てなければいけない通称「22%ルール」だ。

 事務所と倉庫だけでは、元の土地に対して22%に達しないため、末吉社長は悩んだ結果、事務所の隣に終の棲家を作ることにした。

 それらの工事を依頼すべく、長年会社同士の付き合いを続けてきた建築会社(株式会社サン建築総合事務所)に相談すると、同社の島田誠一会長(以下、島田氏)は、末吉氏が愛工房の存在を知る以前から、愛工房の可能性に注目していた人物だった。

ウィルスは生きた木とは共生できない

 島田氏は、40年間に亘って住宅の設計や施工を手掛けてきたが、設計に関する法律などがどんどんハウスメーカーや新建材メーカーに有利なように変わって行く様子を直に体感し、建築業界に不信感や危機感を覚えていた。その思いを解決するために、いくつもの建築関係セミナーに通って、勉強を続けていた中で伊藤氏と出会い、その話を聞き、愛工房の存在を知ることで、自分の思いが間違っていなかったことを確信したという。

 愛工房の生みの親である伊藤氏は、愛工房や愛工房で乾燥させた木材を宣伝することを好まない。それは、「本物であれば売り込む必要もないし、広告を出す必要もありません。その良さを実感した消費者が知り合いに勧めてくれるので、自然と拡がって行きます」との信念があるからだ。宣伝をしないため、当然、限られた人しか愛工房の存在を知らない。今回のように、依頼人(施主)と請負人(建設会社)の両者が、元々愛工房に注目していたというケースは極めて稀だった。

 しかし、順調に計画が進んでいた最中に、新型コロナウィルスの猛威が世界を襲った。観光土産食品の製造・販売を手掛ける株式会社亀屋本店の売り上げは、ほぼゼロに近い状態まで落ち込んだ。

 末吉氏は、当初、建物の全てに愛工房の木材を使用する予定だったが、予算を少しでも抑えるため、削れる部分を削る覚悟をしなければならなかった。

 その思いを島田氏に伝えた。株式会社サン建築設計事務所の小原正博社長(以下、小原氏)よりその旨が伊藤氏に伝えられる。伊藤氏は、会社の石原正博氏と直ぐに鴨川へ赴き、末吉氏、島田氏、小原氏と会談を持ち、製材所では既に資材の準備が進んでいる状況を説明し、末吉氏にこう言った。

 「社長、この建物は呼吸する建物ですよ。これからはウィルスとの共生が求められる時代です。『生きたスギ、ヒノキ』はウィルスの不活化、感染を抑制する力があることが実証されています。人々も本物の高級住宅は『呼吸住宅』であることに気づく時代になります。人間の生命にとって一番大切なのは呼吸です。つまり、一番大切なのは安全な空気です。これは商品にとっても同じです。建物は命を守るための建物でなければなりません。呼吸する家は、100年、200年持ちます」と訴え、同時に、材料費が安くなる方法も提案した。

 伊藤氏の提案に納得した末吉氏は、当初の予定通り、構造材、仕上げ材に使う木材の全てを、愛工房で乾燥した木材を使うことを決めた。

化学的な材料が一つも使われていない家

現在、国が定める建物の耐用年数は、木造は22年、鉄筋コンクリートは47年とされている。木造の耐用年数の短さには驚くばかりだ。

 昔ながらの日本の建物は、100年、200年持つのは当然だった。現に、東大寺の大仏殿や法隆寺などは1000年以上持っている。それは、丁寧にじっくりと自然乾燥させた生きたままの木を使っているからだ。しかし、効率化を優先するため、少しでも早く木材を乾燥させようと、100°Cの高温で乾燥させ、死んでしまった木材を使って建てた家は、白アリに食べられ、ダニや菌にやられ、わずか20年ほどしか持たない。

 家が長く持たないことは、家主にとっては不幸だが、ハウスメーカーにとっては幸せなことだ。ハウスメーカーは家を建てないと儲からないからだ。家を建ててもらうには、今住んでいる家が劣化してもらわなければいけない。建築業界では、「住宅ローンを返済し終えた頃には、建て替え時期になっている」とも言われるようだ。

 「命を守るための家をつくるのが建築産業の本当の姿です。建築産業は健康産業になるべきなのに、今は真逆の非健康産業になってしまっています。住む人達を幸せにする安全な建材を使った現場では、仕事をしている人達も幸せになります。人を不幸にすることが分かっていながら、金儲けをしているとすれば、自分自身も不幸になります。建築産業で働く人達のためにも、住む人達のためにも『建築産業が健康産業』になること、これが私の願いです」と伊藤氏は語る。

 完成間近の事務所に入らせてもらうと、木の良い香りが漂う。最近の建物は、外壁は勿論、内壁にもペンキや防腐剤が塗装されることが当たり前だと言う。しかし、この建物には何も塗られていない。そればかりか、この建物には、科学的な材料が一つも使われていない。これは現代建築の常識から言ってもあり得ないことだそうだ。

 伊藤氏の口癖に、「経済優先から命優先へ」との言葉がある。新型コロナウィルスの蔓延による被害は甚大であったことは間違いないが、これを契機にして、戦後の日本社会が歩んできた経済や効率化を優先する価値観から、自分も他人も含めた、人の命を優先する価値観へと変わって行きそうな予感を、愛工房が拡まって行くことで感じられる。

立川秀明(世論時報記者)