私は自分が働いているときに、幸せを感じます。 つまり、働くのは義務ではなくて、権利なのです。労働を義務と考えるからつらくなるのであって、権利と考えると一気に楽しくなります。 |
私は、五十代に入ったころから、60歳からは本格的な「はたらく」をやりたいと考えていました。産んでもらって、生かしてもらって60年間、さまざまな人と出会い、勉強をさせてもらい、少しは知識も技術も身につけることができました。
これからは、今までの経験を活かして「はたらく」。日本の子供たちや孫たちのために何かできるのではないか、いや、何かやらなければいけないという気持ちが膨らんでいました。
船瀬俊介さんと講演で全国各地をまわって、地域のいろんな問題が見えてきました。出口昭弘先生に農業指導をお願いして一緒にまわっていたときも、それよりもっと前から九州の高校や中学校をまわって非喫煙運動をしていたときも、すべてが「人」「生命」「環境」に結びついていることに気付いたのです。
問題の源が森林再生にあり、林業の活発化と安全な住まいの必要性、そのキーワードが杉の活用であることを知らされたのです。その杉が抱える大問題が乾燥にあることを知りました。
日本の木、特に杉を生かし活かすための木材乾燥装置「愛工房」を開発させていただきました。次は「愛工房」を活用して杉の素晴らしさを知ってもらい、日本中の住まいに、公共の建物に、杉が使われることを夢見ています。そうなれば、おのずと日本の林業がよみがえり、森林が再生されます。
60代を大切に生きる法
私の場合、19歳で上京したものの身体を壊して、航空自衛隊に入隊。この3年間で体を鍛えて、24歳前に再度上京。このとき考えたのは、あと1年間、見習いとして世の中のお世話になる。つまり、生まれてから25年間はまわりの人々に助けられて生きる期間。特に自衛隊にいた3年間、勉強や生活のために使われた費用はすべてが税金から。これからの働きで返さなければと思いました。
そして、そのお返しをする期間を25年間とすると、そこで50歳になります。つまり、ここでプラス、マイナスがゼロになるのです。
60歳までの10年間は、「働きたくても働けない人のために働く」期間と考えました。
60歳が近づいてきた頃、生きている間に自分がやるべきこと、自分にしかできなことは何だろう?それを探しました。
60歳を過ぎて電気工事業を卒業した後に始めたのが、木材乾燥装置の開発でした。
60歳までに出会った人、物、ものごとはすべて、私にこの乾燥装置をつくらせるためだったのではないかと思っています。出会ったすべての人、すべてのものごとに感謝したい気持ちでいっぱいです。
六十代で働くことは、それまでの知識、知恵、経験という財産を活かせること。
六十代で働くことは、いずれ自分が世の中の負担になる時期に備えた貯蓄だ。
七十代になって働けることは、働くことに喜びを感じて働くことにする。
八十代になっても働ければ、働けることの幸せに感謝して楽しく働きたい。
人一倍子供好きの私が44歳の時、子供を授からないその後の人生を受け入れました。その時が私の「はたらく」人生の折り返し点でした。88歳まで「はたらく」ことができれば、子供の分まで「はらたいた」ことになる。90歳で第二の卒業ができれば本望です。
この世に生まれてきて、生かされてよかったと言える一人になれば本望です。
『樹と人に無駄な年輪はなかった』
第6章 P.272より