『世論時報』2019年2月号の特集「森林大国の可能性」に掲載されました

 

 

「愛工房」が”木を生かす奇跡の木材乾燥装置”として紹介されました。

「経済優先」から「命優先」へ舵を切れるのは消費者

日本の林業が廃れたのは効率を優先したため

木を生き物だと考え木に聞きながらの製作

個人宅や教育施設から届く感動の声の数々

杉の学術名は「日本の隠された財産」

 

世論時報2019年2月号 特集「森林大国の可能性」

日本の人口は世界の約2%ながら、世界の木材の約3分の1を消費している。しかし、日本国土の3分の2を森林が占める森林大国でありながら、消費する木材の約70%は海外からの輸入材である。
 「国産材の活用」は、以前から叫ばれながらも、複数の課題が入り組み、前進しづらい課題だったが、ここに来てようやく明るい兆しが見えてきた。

たまたま買った本で見つけた「日本の山林業の救世主」

 伊藤さんを知ったのは半年くらい前である。たまたま購入した、自然治癒力を研究しているある医師の本の中で、「日本の山林業の救世主」として紹介されていたのが目に留まった。何でも、今までと全く違う木材の乾燥装置を開発し、木の良さを引き出した木材を生み出すことに成功した人だという。

 今回の特集が決まった時点で、まずこの人に会ってみたいと思った。本誌の特集の趣旨と取材希望日をメールで送ると、すぐに電話をくれた。「頂いた日程は全て埋まっているのだけれど、何とか調整しましょう」と言ってくれた後、伊藤さんは日本の木々がなぜ活用できていないか、木には底知れぬ可能性があるということを熱弁してくれた。電話越しに聞くのはもったいない気がしたので、「是非、続きは当日に聞かせて下さい」と言って受話器を置いた。

 取材日当日、指定された駅に着くと、車で迎えに来てくれた伊藤さんは、「まず実物を見てもらいます」と、「愛工房」と呼ばれる木材乾燥装置が置いてある工場に連れて行ってくれた。この「愛工房」の開発こそが、彼を「日本の山林業の救世主」とまで言わしめるゆえんである。

 その乾燥装置は、全て国産材で作られており、見た目は小さめのサウナのようだった。装置の中を見せてもらったが、木の良い香りは漂っては来るものの、特に最新の技術が施されている様子もなく、至ってシンプルな作りだった。

 この装置のどのあたりがすごいのだろうか?と思いながら、「これで乾燥させた木が二階にありますよ」と言われ案内された部屋で、乾燥処理を終えた木の板を見て驚いた。

 表面は滑らかで全くひび割れがない。なおかつその色味は明るく、乾燥させたとは思えないほど艶々していて、温かみを帯びている。今までこんなに綺麗な木材を見たことはなかった。

 理屈抜きで、「愛工房」による乾燥が、木の処理方法として間違いなく良いのだということだけは分かった。

日本の林業が廃れたのは効率を優先したため

 伊藤さんは、28歳で電気工事会社を開業し、自らの会社の社員を全員非喫煙にするなど、タバコが人体や社会にもたらす悪影響について正面から取り組んだ。各地から講演に呼ばれる中で、何かに導かれるように、環境問題、特に日本の森林や林業が直面している問題に辿り着いたと言う。

 「結論から言えば、人々の意識が『経済優先』から『命優先』に変われば、森林大国の可能性はいくらでも拓けてきます」と伊藤さん。

「戦後、日本人は何でも効率化を求め、人間に都合の良い木ばかりを作るようになりました。人間に都合の良い木とは、早く育ち、早く乾く木です。早く育てるために、実から植えずに、木の枝を切って、挿し木で育てるのです。すると、時間的には早く育ちますが、挿し木の場合、直根(土中深くへ伸びる根)が育たないので、倒れやすい木になります。
 以前から、杉の山は土砂崩れが起きやすいと言われていて、私もそれが常識だと思っていましたが、それは大間違いでした。先祖たちは実(いのち)から苗を育て、植えていました。杉は土砂崩れを防ぐのに最適との文献を見て驚きました。実生の苗は土中へ根を伸ばしてから上へ伸びる、生命として当たり前のことです。杉を倒れやすい木にしていたのは人間なのです。
 乾燥にしても、昔の日本人は木を乾燥させるのに10年も20年も掛けて自然乾燥で乾かしていました。しかし、近年は、効率を求めて100°C前後の高温で一気に乾燥させるのが当たり前になってしまいました。それでは、木本来の油成分や酵素が死んでしまい、木自体として死んでしまうのです」

 つまり、伊藤さんは、木は切った後も死なずに生きていると言うのである。このことが、まず筆者には衝撃だった。

木を生き物だと考え木に聞きながらの製作

「生きた木材というのは、命の素である酵素をはじめ油成分などを損なわず呼吸をしています。木を生きたままで使えば、カビが生えることも、虫に食われることもありません。木の成分を殺してしまうから、カビが生え、虫が食うのです。それを防ぐためには消毒と称して、木に農薬という名の毒を塗らなければいけません。農薬漬けにされた木材で作られた家に住むことで健康を害した人を私は何人も見て来ました」

 そこで、木を殺さずに乾燥させられる装置は作れないかと模索し始めた伊藤さんだが、木に関しては当然の素人。しかし、「それが良かった」と本人は言う。経済や効率優先の常識に捉われなかったからだ。

 「木は生き物だと考えて、生き物が生存可能な温度で乾いて欲しいと思いました。そこで『木に聞きながら』探り当てた最適な温度が45°Cでした。後日45°Cという温度は、木の酵素を損なわない温度であること、さらに薬草の薬効を失わず変色させない乾燥温度も45°Cであったことを知り驚きました」

 開発初期の段階で乾燥温度を当時の外気温度から50°Cまで試しましたが50°Cだと表面の色が濃くなり、「これは木が嫌がっている」と思い、辿り着いたのが45°Cだった。

 また、除湿することで木を乾燥する装置であることも聞かされましたが、自分が汗を出すのは湿気のある環境です。木たちが気持ちよく汗(水)を出す環境が大切だったのです。
 「私は今までも、周りが『こうするべき』と言う常識の逆のことをするとうまく行ってきました」
 常識の逆を行って完成させた「愛工房」で乾燥させた木は、色、艶、香りを失わない、生きたままの木材として利用が可能になった。

 「東大寺の大仏殿や法隆寺など、日本には1000年以上も昔に建てられた木造建築物がいくつも現存しています。それは十分に自然乾燥させたからです。
 木は伐採され、製材され、建物や家具に使われてからも生き続けます。生きた木たちは200年300年の経過と共に強度が増します。呼吸し続けるからです。但し高温で乾燥された木、化学塗装、農(毒)薬等を使用された木にはその能力は期待できません。

 ハウスメーカーは、自分達が作る家は良いですよと一所懸命に営業します。私は、愛工房の乾燥機も、その乾燥機で乾燥させた木も、一切営業しません。営業しなければ売れない商品を売りたくありません」

 実際に、愛工房で乾燥させた木の良さを実感した人達から、その木を使って家を建てたいという申し出は後を絶たない。

個人宅や教育施設から届く感動の声の数々

 茨城県のある方は、新しい家を作るために大手のハウスメーカーと契約を済ませた。しかし、その後、伊藤さんの書いた本を読んで愛工房を知り、そのハウスメーカーとの契約を、違約金を払って破棄し、愛工房の木材を使った家を建てた。「杉の優しい香りに癒され、まるで森林にいるような感じで深呼吸したくなります。素足で歩いても、温かみを感じるほど柔らかいです」と喜んでいるそうだ。

 また、ある家庭では、設計に丸一年掛けるほど凝りに凝って木造の注文住宅を作ったが、新築から3年目に同居していた父親が倒れてしまった。リフォームの相談を受けて打合せに行った伊藤さんは、あまりの底冷えで体が冷えるのに驚いた。
 せっかくの力作だった家だが、施主の「命のほうが大事です」との強い希望があり、愛工房の杉を使って全面リフォームを施した。今はとても満足して快適に過ごしている。

 愛工房の木を使いたいという希望者の用途は、個人の家だけには留まらない。幼児教育に携わっている女性が、自らがオーナーとなる新しい教室を池袋に開講することになり、愛工房の木を使った教室を作った。
 最初は、生徒が5名しか集まらなかったが、その後だんだんと生徒が集まり出して、2015年には100名に達し、「奇跡の杉教室」として注目を浴びた。
 現在は、同じビルにもう一つの教室を増やし、生徒数は230名に達している(他の教室も合わせて500名)。今年の3月に鎌倉駅の近くに開設する教室は湘南地域に愛工房の杉を使った教室の第一号となります。教室を開講予定だという。

 似た例で、英会話教室を新たに始めたいという方が、教室内の空気にこだわり、床から天井まで全て愛工房の杉を使った。杉の香りやぬくもりに包まれて、森林浴を体験しながら学んでほしいという希望だった。

 木に囲まれた環境が、実際に勉強する場所に適しているのかどうかについては、2013年に九州大学が発表したデータが興味深い。
 天然の国産杉の家と、合板など新建材の家とを比べた場合、天然の国産杉の家のほうが、疲れた脳が回復しやすく、体も活動的な状態になることが明らかになった。

 すでに、山口県山口市の幼稚園では、長年使っていた園舎の近くに3千坪の敷地を得て、全て木材の20棟近い園舎が建ちます。使用する地元の木材は3千本を越えます。

 マンションなどリフォームが難しいところでは、杉の板パネルが好評です。

杉の学術名は「日本の隠された財産」

 「日本の森林を活かすには、末端(消費者)の需要が必要です。消費者が欲しいと思う家や家具を作ることが一番大事なのです。そのためには、木の良さを活かす乾燥技術がどうしても大事になって来るのです」と伊藤さん。

 京都市のある街では、愛工房の乾燥技術を、地域おこしのモデルケースにしたいという計画も検討されている。木材乾燥事業を中心に、造作材・家具事業、育児事業(愛工房の木による託児所の建設や、木製品による木育展開など)、住環境改善事業(コンクリート住宅を愛工房の木を使った内装にリノベーションするなど)など、暮らしの中で連鎖的に事業を生み出して行くような構想だ。
 そして、それらの事業には、定年退職者、老大工、若手デザイナー、母親世代など、幅広い年代の雇用の創出が可能になる。

 「杉の学術名は『クリプトメリアジャポニカ』と言います。意味は『日本の隠された財産』です。よくその名前を付けたものだなと感心しますが、まさしく杉は日本の財産です」
 日本に植えられている木の中で一番多いのが杉だ。木の命を優先に考えることで、まさしく森林大国の可能性は底知れぬほど拓けて行くだろう。

 「人間は、地球上で一番能力を持っているのは人間だと考えるでしょう。知能は確かに人間が一番かもしれませんが、生命力に関しては、人間は木の足元にも及びません。
 木は人間がいなくても生きられますが、人間は木がなくては生きていけません。これからの時代は木の立場に立ち、木の素晴らしさを知り、木と共存して行くことです」

 取材を終えて、伊藤さんが「日本の山林業の救世主」と称されるのは伊達ではなかったと感じた。

 

(取材・文 水島恵山)

 

時代のキーワードは「生命」

 一般的には、買うときは安く買ったことが得した気分になるものですが、長く使用するものは、使っているうちに買った時の値段よりも、その「もの」が良いか悪いかで評価されるのではないでしょうか。

本物は「もの」をつくる人たちがまず考えるべきことなのですが、買う人、使う人が真の健康、人と地球の未来を考えた選択をしだすと、「もの」をつくる人たちも変わらざるを得ません。

特に、一度建ててしまったら取り替えのきかない住まいの素材は、そこに住む人たちが「幸せ」になるか、「不幸」になるか、大きな責任を背負っています。

リフォームして体調が悪くなったり、待望の新築マイホームが原因で病気になってしまったら、たまったものではありません。住まいが原因で病気、その先にあるのは家庭崩壊と生命の危機です。

生命を守る住まいとは、呼吸する素材を使用している住まいを指します。
残念ながら、現代の日本の住まいを席巻しているハウスメーカーで使われている石油を原料とした化学建材には、化学物質を放出するものが多いのが現実です。人体の健康を損なうだけでなく、脳に対する影響もあると聞きます。最近は、昔では考えられないような犯罪があまりにも多くなっています。誤解を恐れずに言わせていただければ、近年の肉体的、精神的な障害の原因が住まいにある可能性が高いように思います。

どれだけ儲かるものをつくったとしても、それが環境を壊すものや生命を脅かすもの、そして将来的に負の遺産になるものであっては、絶対にいけません。子孫に何を残すのかが問われている時代です。

国策の名の下で、私たちの年代は生まれてまもなく戦争の犠牲になりました。そして今また、「原子力は国策」として進めてきたリスクを味わうことになっています。本来、国策とは国民のための対策であるべきはずなのに、国民を犠牲にする対策となっています。

目先の豊かさはもう結構。たとえ苦労しても、将来の幸せを目指す生き甲斐を求めたいものです。私は子供たちに、安心して暮らせる環境を残すお手伝いをしたいと心から思っています。

大量生産・大量消費・価格破壊の時代は、環境破壊・生命軽視の時代でもありました。これからは「生命優先」の時代にしないと、日本は「環境破壊先進国」として、いずれ世界中から非難を受けることになるでしょう。

「この品物は、あなたの生命を損ないます」

「こちらの品物は、生命を守ります」

されあなたはどちらを選びますか?

こう問われて、前者を選ぶという人はまずいないでしょう。
商品の善し悪しは、「生命に良いか、悪いか」が基準になる。そんな時代は、もうすぐそこまで来ています。キーワードは「生命」なのです。

環境を破壊するのは、常に大人たちです。子供たちに何を残すのか、何を残せるのか、何を残すべきか、いま真剣に考えて実践しないと、将来子供たちに恨まれるでしょう。私は、そんな大人でありたくありません。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.265より

今の住宅事情には、ご用心を!

 世界各国の住宅の寿命は、各国の住宅耐用年数比較表(木俣信行 表2・建築物の耐用に関する諸統計 財団法人・日本建築学会「木材研究・資料 第37号 2001年」)によると、イギリスの141年、アメリカ103年、フランス85年、ドイツ79年、日本30年とありました。
 日本のレベルが低いこともあってか、最近、日本でも「100年住宅」「200年住宅」という言葉をよく耳にするようになりました。しかし、それは実情を伴ったものなのでしょうか。

 建物の寿命だけでなく、そこに住む人の寿命を延ばす素材を使った住宅がほんものの住宅です。生きた木は建物になっても呼吸しています。動物たちが必要とするものを提供して動物たちが吐き出すもの(二酸化炭素)を吸収する。つまり、住まいの中で森林浴をさせてくれます。すでに100年を経過している、日本の本物の100年住宅には、天然乾燥で酵素が残っている、生きた木しか使われていません。

 しかし、最近よく耳にするハウスメーカーがこぞって「100年住宅」「200年住宅」と謳って売り出している建物は、残念ながら生きた木を使っていないものが多いようです。たとえその木が呼吸する木であっても表面に化学製品を張ってしまったら、木は殺されたも同然です。塗料も同じです。せっかく無垢材を使っていても、化学物質の入った塗料で呼吸を止めてしまっては無意味です。

 日本の住宅の90%で使用されているといわれる「ビニールクロス」、正確には、「塩化ビニール」は、アメリカの住宅では全体の10%ほどしか使われていないと聞きます。
 さらに、そうした塩化ビニールを使わずに木だけ使っていても、安心できません。日本のハウスメーカーの大手が「安い」という理由で使っている輸入材(外材)は、化学物質ににまみれているのが現状です。外国の産地で船積みされたほとんどの木材は、防虫、防カビ対策に大量の農薬が使われます。つまり、”毒漬け”されながら海を渡ってくるのです。こうした木に染みこんだ毒は、建物や家具に使われたのちに、少しずつ揮発するなど大気に出てきて、住まいの空間を毒の空間にしていくわけです。

 石油から生まれた化学物質で、身体も脳も冒される。そのうえ、世界一短命な住宅のみならず、そこに住む人も短命になる住まい---。
 日本の住宅は、消費者の知らないところで、ひどい状況にあります。
 とはいえ、知っている人は知っています。しかも、意外な人が...。
 2010年の春、大阪で新築を予定している施主さんが、建築会社の社長と一緒に愛工房にやって来ました。施主さんはその建築会社に、仕上げ材は愛工房で乾燥した板材を使用するように指示していました。

 完成後、再び愛工房に来られた建築会社の社長のお話では、この施主さんは打ち合わせ段階から天然素材にこだわり、化学建材の仕様をいっさい認めなかったそうです。あらゆる方面から集めた情報の資材使用を厳しく要求されるので、一時はお断りしようかと思ったほどだったといいます。

 厳しい要求をしつづけた施主さんのお勤め先を聞いて、私は「やっぱり」と思いました。近く定年を迎えるこの施主さんは、誰もが知っている、建材・建築も関連している有名な化学製品メーカーの重役さんだったのです。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第1章 P.47より

日本人だからこそ成し遂げられる《木・呼吸・微生物》超先進文明の創造 5月26日出版

自然共生のナチュラル・サイエンスへ 伊藤好則・船瀬俊介ほか

これぞ、行き止まりのない地球 《すずあかの道》の歩み方

これから日本の杉をどうするのか。
そこから日本文明の本質へ迫ることができる。呼吸する木、微生物の生きている木、45度Cでの乾燥が奇跡の杉を生み出した。木造都市の夜明けが始まったのだ。

使われなくなった田畑をどうするのか。
そこからも日本文明の本質に迫らなくてはならい。宝物を生み出す田畑は住宅地の10分の1の値段しかつかない。なぜなのか?愛工房の杉が縁でその歪みを正すヒントが生まれた。

黒芯の杉さえも宝物に変える「愛工房」を杉山へ設置できたなら。奇跡の杉を使った超付加価値の建造物、家具が作れたなら。過疎の里村が蘇生する。杉伐採の跡地で伝統のごぼう栽培を復活させた桃原の試みとは?

杉の棺桶が縁で千島学説研究会での講演

島根県江津市の、あうん健康庵の小松健治先生から、5月に東京で開催する、千島学説研究会東京セミナーにおいての、講師依頼の電話があり驚かされました。
先生に驚かされるのは2度目です。前に自宅の床のリフォームに「香素杉」を使って頂いたあと、とんでもない電話をいただきました。
棺桶用の杉板を用意してほしい、との電話に、「どなたの棺桶ですか」と聞くと、自分か奥さんのどちらかが使う分とのこと。
杉の床板を体がよほど気に入ってくれたのか、驚きと同時に嬉しくなりました。
やはり、白い方が良いのか、少し赤身もある方が、温かい感じもするし、と想いをめぐらしてお送りすることに。程なくして製品になった棺桶の写真が送られてきました。
見事な出来栄えでした。この中に入ると気持ち良くて起きてこないのではないか、ん、本当に必要になったときは起き出すわけがないのにそう思いました。
ところが、2013年9月に行われる、第7回健康セミナー山口大会の資料が送られてきたのを見て驚きました。巻末講演 お棺木浴を楽しみつつ、死生観を醸しての気づき・小松健治・とありました。ここに、棺桶を持ち込み披露するとお聞きしました。
先生が出版された、『医者が学んだ祈りの力』(幻冬舎)の中の一節では“クギを1本も使わず、開き扉にちょうつがいのある棺桶です。「お棺木浴」を体験したのは、誕生日の5月15日でした。まず、私が妻に「生前は大変お世話になり、ありがとうございました。先にみらいへ行きます」と神妙に挨拶してお棺に入りました。しかし、「さあ、死生観を醸そう!」としたのも、つかの間、杉の香りにたちまち全身が包まれ、温かくて、呼吸が深くなっていき、すぐに寝入ってしまいました”と、案じた通りです。
正式に講演の依頼があったあと、主催者の仁志天映先生親子と小松健治先生の家族の方々が愛工房の「杉浴」に来られ、杉の素晴らしさを堪能されました。
平成29年度「千島学説研究会東京セミナー」が5月20日と21日に豊島区医師会館で開催されます。5月21日の最終講演、演題は『樹と人に無駄な年輪はなかった』です。
棺桶の縁から始まったので、最終演者なんですね。

船井幸雄.com コラム
2017.05.10(第77回)より

化学物質住宅に、悲しみと怒りを込めて

農(毒)薬と住まいは無関係ではありません。むしろ食べ物よりも人の命、神経、精神を犯されていることが多いと思います。食べ物は選べますが、空気は選べません。
ネオニコチノイド系の農(毒)薬は、ヒトの脳への影響、特に、胎児、小児など脳発達への影響が懸念されています。既に、ヨーロッパでは、数年前から使用が禁止されています。
食べ物は、胃や腸を経て全体にまわります。空気は即、体全体にまわります。
一日に摂取する空気の重量は、一日に食べる食物の5倍あるいは10倍とも言われています。
一軒の住宅に使われている、新建材や合板の中のネオニコチノイド系の農(毒)薬、かなりの量が使われています。
安全基準は生産工場から出る時のもの、実際に住まいに使われてからの危険性については、どこも責任も、感知もしません。自分の命、家族の命、自分で守るしかありません。
現代社会を生きるには「食べ物」は、大切。しかし、「住まい」の空気は、もっと大切。

 

―1.母子無理心中
2016年7月23日の夕刊記事を見て愕然としました。間違いであって欲しい、何度も確かめましたが、住所、氏名、年齢、私の知っている親子でした。
ちょうど1年前の7月、初めて来所した母親の話では、子どもが産まれるので10年前に新居を建てた。すると出産以降、母子とも年々体調不良となり、住まいが原因であることに気づいて10歳になる男の子を連れて相談に来られました。リフォームするには費用が大変。部分的な手入れでは解決しない、そこで、私は、土地が少しでも空いていれば、2人の避難小屋をつくることを提案しました。しかし、その後、その話しは進展しませんでした。当初は母子で「杉浴」に参加していたのが、途中から母親だけになりそのうちに来なくなりました。建築会社は、誰もが知っている大手のハウスメーカーでした。

新聞では「西東京の住宅で母子無理心中か」の見出しで
“22日午後10時40分ごろ、東京都西東京市の住宅で、住人の主婦(44)と長男の小学6年生(11)が死亡しているのを、仕事から帰宅した会社員の夫が見つけて119番した。警視庁田無署は現場の状況から母親が無理心中を図ったものとみている。署によると、母親は2階の部屋のクローゼットの中でロープで首をつっていた。長男は同じ部屋の布団の上にあおむけで倒れており、首にひもで絞められたような痕があった”と。

身体も、精神も追い詰められたのか、何とも言いようのないできごとでした。
シックハウス、化学物質過敏症では、家にいる時間が長い奥さん、免疫力の低い子どもたちが受ける被害が多く、旦那さんに理解されないことが多いので、相談には夫婦で来られることを勧めます。夫婦で来られた場合はほとんどが良い結果になっています。
本来、人をはじめとして生きものは、危険なものに対して、「危ない」と察知し反応するのが当たり前です。命に危険なものを、「危ない」と知らせる身体の人に「過敏症」という病名をつけていますが、こちらの方が正常で、危険なものに対して無反応な人の方が「化学物質鈍感症」という病気だと教えます。過敏症と言われている奥さまが正常なのですと告げると、旦那さんや周りの人たちに理解されず精神的にも参っていたのでしょう。泣き崩れる奥さまもいらっしゃいます。
旦那さんにわかって貰えたことで精神的にも救われ、呼吸する建材、家具などを取り入れた日から、身体が良くなっていく、奥さまや子どもたち。ご主人も家庭もみんなが救われます。

―2.恩師の死
西山中学校を卒業して、半年後、母は小学生の妹と就学前の弟を連れて10年余りの住み慣れた住まいを出ることになりました。父、兄、直ぐ下の妹は既に家を出ていたので、私は、自分の住む場所を求めて寮のある就職先を新聞の求人欄から探して応募することに、就職難の時代です。見習い工員1人の募集です。必死でした。考えた末、又吉熊雄先生を訪ねて推薦状をお願いしました。卒業時は教頭をされていた先生は、この年からは同校の校長になられていました。
もう1人、一新小学校で3年から6年までの担任、上里良蔵先生にもお願いしました。
お2人の推薦状のお蔭で9人の応募の中で1人、採用となりました。お2人とも沖縄のご出身でした。その後、最後までお付き合いをさせていただきました。
そうまでして就職した職場を翌年の6月には、丁稚になりたい一心で大阪へ向かいました。お2人には働き先が決まって、お詫びと報告をしました。
8月の暑い日、店先に、又吉先生が見えました。覚悟の上での丁稚修行でしたが、仕事へのとまどい、それより、職場の人間関係、生活の違い、驚きと辛さを感じていた頃でした。先生と何の話しをしたのか憶えていません。が、とにかく嬉しかったこと、心強い気持ちになったこと、有り難かったこと、思い出すと今でも涙が止まりません。
私が独立し、結婚したころには、先生は埼玉県の所沢に住まわれていたので、夫婦でお宅へよく伺いました。妻は奥さまから電話があると、所沢のお母さんから電話だよと言っていました。あるとき、大阪の丁稚先へ来てくださったときのことを尋ねました。
先生は、「校長になって初めて送り出した子どもたちだ。高校へ進学した子どもたちは高校の先生方が心配してくれるが、中学校を出て世の中に出た子どもたちは、私たちが、気に掛けてあげるのが当たり前でしょう。無理をしてでも多数の子どもたちと会いたかった」と、私は後輩たちの恩恵にあずかったことを知りました。先生は、夏休みの期間中、時間とお金の節約に、通りがかりのトラックに乗せてもらったことの話もされました。先生の生徒への想い、懐の深さに改めて感銘を受けました。

2016年8月15日、又吉先生宅へ夫婦で伺いました。先生ご夫妻は既にお亡くなりになっていますが、私より2歳若いご長男とはその後もお付き合いが続いています。20年前に亡くなられた先生の思い出話をしている中で、大変な体験談を聞きました。
独身の彼は完成した住まいに平成2年、両親と一緒に住むことになるが、その前まで数年間住んでいたのが新築のマンション。そこに住み始めた頃から身体中に痒みが出るようになったが、新築の住まいに住み始めると痒みは一層激しくなり、手首から背中まで痒さと戦う苦しみの毎日で血だらけの体に、夏でも半袖シャツを着ることができなかった。
仕事で海外へ出張することも多く、先進国のホテルでは熱いお湯が出るので一番熱くしたシャワーを浴び、次に冷たい水のシャワーを浴びることができて助かったが、ぬるま湯しか出ない国では地獄だった。と、壮絶な話し、聞いているこちらが地獄でした。
ただ、当人の皮膚は、体は、どちらも地獄だったのでは。

今は、新築から20年以上が経過して、建物に使われていた毒は薄らいできたのでしょうが、半袖シャツから見える彼の腕には、血だらけの苦しみと戦った痕跡が残っていました。
彼は、自分がそんな目に遭うのは、自分の皮膚が弱いからだと受け止めていたが、私が木に関わるようになった10年ほど前から、話しの中に出てくる、部屋の空気の大切さを聞くにつれ、建物が原因だったのでは、と、気づいたそうです。
彼から、「新築の家に住み始めたころから、それまで何ともなかった親父が身体か痒いと言い出した」。と、建築会社は、母子無理心中と同じ大手のハウスメーカーでした。
先生は、平成6年の始めに入院され、3月の自宅外泊の日に伺うと、ご自分の病名を「気質化肺炎」と書いて渡されました。3年後の西山中学校創立50周年の話しをすると、一緒に行こうと言われて、嬉しい反面妙に気になりました。体調を崩されて、この、2、3年前から遠くへ出ることがなかったからです。平成1年から続いていた、関東地区の同窓会への参加へも無理なのに、熊本へ行くことなど到底考えられないことでしたから。

平成1年の秋、新宿で関東地区の同窓会を開催、参加者20名ほど、又吉先生ご夫妻をお迎えして、先生の傘寿のお祝いとご夫妻の金婚式のお祝いをしました。平成2年の秋にも同じ場所で、その年は先生のご自宅の完成を皆で祝いました。(後で思えば皮肉なお祝いになってしまいました。)
新築の住まいに引っ越された翌年の平成3年は先生の体調が思わしくなく欠席の予定でしたが、開催日近くになって、出席の連絡をいただき、自宅までお迎えに行きました。先生の参加はこの年まででした。
平成6年3月にお会いした翌日、先生は病院に戻られ、熊本どころか、自宅へも帰ることなく5月29日帰らぬ人となりました。もっと、ずっと、見て欲しかった、無念でした。
これまで、先生に見守って頂いている、その思いで、間違わずに進めました。
間違った新築のおかげで、あと10年、それ以上も語り合えたのにと思うと、悔しさと、怒りがこみ上げてきます。
あの頑健なお身体の先生が新築病、空気病が原で、大切な恩師の命を奪われました。

 私が60歳を過ぎて、現在の仕事に導かれたのは、そうだったのかとも思いました。
 私たち3人は所沢霊園に眠る、先生ご夫婦と、先生のご両親、先生の大切な2人の伯母上に会いに行きました。

 先生とお別れした翌月の6月、前年に続き母校での講演でした。この月は、高校、中学校など6か所での講演でした。地元の熊本日日新聞は母校での講演の様子などを、「嫌煙社長奮戦記」と題して、4日間連載で掲載しました。
 記事の中の一節では、“同中では中学時代の思い出を語りながら、先日死去した恩師の又吉熊雄校長に話が及んだ時、伊藤社長が一瞬絶句したのも若い後輩たちとの距離を縮めたようだった。図書室には伊藤社長が、講演した謝礼の寄付で学校が購入した、たばこ問題関連の本を集めた伊藤文庫がある”と。
 平成9年に行われた創立50周年には、生前、先生が大切にされていた腕時計、それに愛用されていたネクタイと一緒に出席しました。
 家は、住まいは、住む人の命を守るものと思っていました。身体を、精神を、損なうために、家を建てる人、住まいを選ぶ人は1人もいないのです。
 造る人たち、提供する人たちは、このことを自覚すべきです。

船井幸雄.com コラム
2017.05.10(第77回)より

千島博士の「死」の捉え方

 あらゆる生物の死亡率は100%、誰も死から逃れることはできません。だから、多くの人が、死生観を語ってきたのでしょう。
 千島博士もその1人です。博士は「死」をどのように捉えていたのでしょうか。まず、博士は、生と死は、楯の両面であり、「生」なくしては「死」はなく、「死」なくしては「生」もないとしています。

 「死は、生のきっかけ=契機である」という哲学的な考え方をされ、「細胞の死によって、バクテリアが新しく生まれること(新生)」をカエルの観察で確認されました。
 千島博士は、昭和29(1954)年、カエルの赤血球が腐敗していく過程をずっと観察し、赤血球から、バクテリアの桿菌が発生する事実を顕微鏡で捉えました。そこで、「死」は「生」のきっかけであることを実証されたのです。
 そして、人間も高等動物も、腸内細菌と共生しなければ生きていけないことを、とくに、腸内乳酸菌のおかげで、お互いに生かされて生きているとしたのです。そこにあるのは、弱肉強食ではなく、共存共栄の思想であり、それは人生観にも通じるものとしました。
「自然や生命は、生と死を連続的に繰り返して、螺旋的な反復を通じて、生物は進化している」と説かれました。
 これは、東洋、仏教思想の「輪廻」と通じるものであり、あらゆる生物に共通するものです。その第一は、樹木です。地球から人類がいなくなっても樹木は生きられますが、樹木がなくなれば、人間は生きられません。
 しかし、多くのところでご神木とされている杉は、一方では、増加し続ける花粉症の元凶にもされています。杉の学名「クリプトメリア・ジャポニカ」には、日本の財産という意味が隠されていることを忘れてはいけません。
 たしかに、第二次大戦後、国の方針で盛んに植林されてきた杉やひのきは、緑豊かな国のシンボル的な存在でした。しかし、手入れが行き届かず、間伐もされていない「放置人工林」ばかりになっています。
 太陽の光もほとんど入らず、もやしのようなひょろひょろの木や倒れてしまったものもあります。

 落葉樹ならば、腐葉土が作られますが、杉の葉は腐らないので、降り注ぐ雨も流れ、下草も生えず、石が露出し、生命力の消えた世界が広がっています。
そうすると、人類などの動物を活かす最大要素の水に影響が出てきます。水質が落ち、界面活性剤の流入がそれに拍車をかけ、川や海の水質汚染は広がるばかり、珪素や鉄分の不足をきたして、生態系全体のバランスが崩れてきます。

 ただ、幸いなことに、日本の山林業の救世主というべき人も誕生しています。その1人が、『樹と人に無駄な年輪はなかった』(三五館)の著者・伊藤好則氏です。
 伊藤氏は、乾燥させるのが難しく、外国材に押され気味になっている日本の杉の現状を憂い、研究に研究を重ねて、45度を標準温度とした低温木材乾燥装置を開発しました。熱源は電気を使い、全部木でできています。
 そして、「変色なし」「薬効を失わない」「酵素を損なわない」「色」「艶」「香り」の3拍子がそろった「香素杉」を誕生させたのです。
 伊藤氏は、「これは奇跡だ!」と評される木材乾燥装置を「愛工房」と名づけ、この生まれ変わった杉材を広めるために、「アイ・ケイ・ケイ」と名づけた会社を設立しています。

『祈りの力』
3章 P.90より

出会いと気づき

 私は人生の財産は、「出会い」から始まるものと信じて出会いを大切にしてきました。
出会いとは、「人」、「もの」、「ものごと」、との出会いです。

2017年2月20日、こちらのコラムへの寄稿依頼のメールがありました。翌日、電話をすると担当者は香川県の出身で当社のホームページにより、私が3月12日に高松市で講演することを知っていました。
「人・地球・木の命」(あなたの日常は木があることで、こんなに変わる)。

これが、高松市の山奥、大福院での講演会のタイトルでした。
この度の寄稿に際しては基本的には自由とのことですから、木製木材乾燥装置「愛工房」のこと、その「愛工房」から産まれる「ほんもの」の製品のこと、できごとなど、講演で話したことなどを含めて書き進めることにします。
なお、今年1月発刊の『木造都市の夜明け』、それと5年前発刊の、『樹と人に無駄な年輪はなかった』(何れも三五館)からの引用もあります、興味のある方は冊子をお読みいただければ幸いです。

(本コラムの寄稿依頼の)メールをいただく2日前の2月18日にあることに出会いました。
数か月前に依頼され、試作を幾度か重ね、数日前に最終の試作品を渡していた杉の小箱、その杉の小箱を使った商品を紹介する写真を依頼主が持参し、「この本に掲載します」と言われて覗き込んだ冊子の表紙には『月刊船井本舗 ほんものや』と書かれていました。
2010年2月号に月刊『ザ・フナイ』「森」特集の中で私の寄稿文「日本の杉に思う」が掲載されたこと、月刊『ザ・フナイ』に連載中の船瀬俊介氏とは30年来の心友として氏の事務所を引き受けていた話しなど、何かの縁を感じることを依頼者に話しました。その2日後にこの度の寄稿依頼です、誰か何処かで操作したのでしょうか。……ありがとうございます。

「木・人・地球」の命。このテーマで進めて参りますが、その前に大地震が起きた熊本を書かせていただきます。私を育ててくれた熊本です。
私は1941年に東京の杉並区に産まれ、強制疎開で母の郷里大分県の日田へ、その後三重県の松阪で終戦を迎え、父の郷里、熊本へ。
熊本に住み始めて間もないころに出会った出来事は子ども時代の生きる原点となりました。それは、向かいの家で数日前までは見かけていた小学生のお姉さんがその日は違うお姉さんに変わっていたので、その家のおばさんに聞くと、「熊本駅で拾ってきた。働きの悪うて飯ばかり食うけん、捨てに行った。また、拾ってきたと」と言います。
それを聞いて、親のいる自分は幸せだと思いました。そのことがあってからはどんなことに出会っても、どんな目にあっても自分が不幸だと思うことがなかったことは幸せでした。
あの時のお姉さんたちはどうなったのか、子ども心にもずっと気に掛かっていました。戦争の一番の犠牲者は弱い立場の人です。戦争は絶対にダメ、ずっと思い続けています。

私が小学校4年生になった初夏、弟が生まれ、兄と2人の妹、生活は益々苦しくなりました。母は生まれて間もない弟を抱いて職業安定所へ行き土木作業に(日当240円のニコヨンと言われていました)、母が働いている間は、木陰で休憩時間になるまで、まだ首のすわらない弟を抱いて立っていました。
職業安定所へ行くには早朝、通学する小学校の横を通ります。母に聞こえるような小声で「学校行きたくなかもん」、母は聞こえないふりをしていたが辛かったと思います。職安で仕事にありつかない日は、もっと辛い日となりました。
その頃は、食べるため、生きるために、皆が必死になって命を守りました。今の人たちの方が命を粗末にしているのではと思うことが多々見受けられます。
すぐに夏休みとなり出席日数は何とか満たして進級しました。

5年生になり、人生の宝となる言葉に出会いました。その頃は夜も明けない暗いうちに起き出して熊本駅へ行き、有明海で獲れたアサリ貝を仕入れて朝餉用に売り歩きました。
前後のザルの中に担げる限りのアサリ貝、と言っても小学5年生が担げる量は限られています。前後のザルに入ったアサリ貝を天秤棒で担いで大きな声を出しての商いでした。
ただ、通学する学校の生徒たちに出会いたくないので学校とは反対方向に売り先を求めたため、帰るための時間がかかり、出席しても大遅刻となり欠席することが多くなりました。目算通りには売れない日については登校するのは不可能でした。
そんな中、たまたま出席した日に教わった言葉が、「天知る、地知る、我知る」でした。
先生は、誰かが嘘をついたことへの説教だったのですが、私には別の意味として捕え、この日から、この言葉にどれほど励まされ、救われたことか知れません。アサリ貝のシーズンが終わると、魚市場で、ふかしたサツマイモ(熊本ではカライモと言います)を早朝から市場で働く人たちに売ってまわりました。
出席日数が少なく6年生への進級が危うかったことは当然で、そのことは、後年、東京の青梅市に居を移されていた先生からも伺いました。私が東京で暮らすようになってから、近郊に住んでいる級友や上京してきた級友を誘って伺うと先生は大変喜ばれていました。
6年生からは新聞配達の仕事に就き、毎月固定した収入があることに喜びを感じました。

中学校では卒業後もお世話になった大恩人、素晴らしい恩師との出会いがありました。そのことについは、前記2冊の本に記しました。
中学を卒業した翌年、工場で働いていた際に病院で出会った32歳の方の一言で人生が変わりました。
「君には若さという財産がある。私が君ほど若かったら大阪で丁稚修行をして、その経験を東京で活かす」と。それはまるで天の声のように聞こえました。
さっそく、準備といっても何もない、16歳の体と夢があるだけでした。大阪へ出立する前日、3人の友人と熊本城で会いました。熊本城は卒業した西山(せいざん)中学校からも近く、一新(いっしん)小学校からからはもっと近くて遊ぶ場所でもありました。その頃には天守閣はなく、だだっ広い敷地をただ黙々と歩き廻りました。
帰るための汽車賃の持ち合わせもない、肝心の就職先は大阪に着いてから探す、そんな身では何を話すこともなく、「天知る」「地知る」「我知る」を忘れず、自分に正直に生きて精一杯働く、絶対に何とかする、決意と希望だけは胸一杯に膨らませ、熊本城と自分に誓ったことは忘れられません。
大阪駅に着き、大阪市役所へ行ってから奇跡的な経緯で丁稚になれたことは、拙著『樹と人に無駄な年輪はなかった』で詳しく述べています。帰熊の折は、再建された天守閣のある熊本城に、報告すること、それが希望のともし火でした。

船井幸雄.com コラム
2017.04.10(第76回)より

巡り合わせと出会いの運命が始まった

 6月中旬、夕方の夜行列車で大阪に出発です。中学時代の同級生数人が見送りに来てくれました。希望に胸を膨らませて、などといった心境にはまったくなれず、不安でいっぱいでした。関門トンネルに入ってからやっと座席で眠ることができました。
 朝、大阪に着いて市役所の運転手の控え室に行ったものの、紹介状に示されている人は知らないと言われてしまいます。ガードを探しに行くべきかと思っていたら、居合わせた人がひょっとして児童文化会館に居る人じゃないかと教えてくれました。そして私の様子を見て不憫に思ったのか、仕事を済ませたら送ってやるからと、すぐ帰ってきて送ってくれました。関西人の情けを十分に感じました。

 連れて行かれた先の運転手は紹介された方でしたが、それからがたいへん。紹介状を読むなり、すぐ「熊本に帰ってくれ」と言います。帰る汽車賃もない手前、なんとかお願いして、その夜は泊めていただけることになりました。
 翌日、奥さんに付き添われて地域の職業安定所に行きましたが、東大阪のほうで工員の募集はあるものの、丁稚の募集はまったくなし、奥さんは工員を薦めます。給料もいいし、いまどき丁稚になりたいなんておかしいと言われましたが、私は丁稚になるために一大決心でここまで来たのです。職安の担当者にひたすらお願いしました。すると、近くにいたその日赴任したという職員が、前の勤務地で店員の募集があったことを思い出して、問い合わせてくれました。
 なんと丁稚の仕事があったのです。
 工員募集の給料よりはるかに安い額を見て、奥さんはまた工員を薦めますが、私は、寝る場所と食事さえいただければ無給でもよかったのです。
 その足で奥さんも一緒にお店へ行ってくれました。私は丁稚になりたいことを、店のご主人に一生懸命訴えました。

 翌々日、番頭さんが迎えに来てくれました。
 面接を受けた靴下問屋の主な得意先は九州でした。出張中の専務(お婿さん)は、私が面接に行った翌日が偶然にも熊本の得意先でした。その日、母に会って身元と家出ではないことを確認してきたことを後日知りました。
 大阪での偶然と偶然の連鎖は、いま考えても信じられないほどです。何に感謝すべきなのでしょうか。こんな巡り合わせを思い出すたびに胸が、目頭が熱くなります。

「何か困っていることはないか?」

お店は時代劇で見たことのあるような佇まいです。畳の上に高さを違えた傾斜のある板の台を置いて、その上に靴下を並べています。お客さんは土間に立って商品を見て、店員は畳の上に正座で応対します。夜はその商品台を片付けて、奥の方から先輩順に布団を並べて寝ます。

 住み込み初日の朝、先輩たちが起きるのに合わせて起きると、同じ歳の一年先輩から「新入りが皆と一緒に起きてはダメだ。皆が起きる前に荷物を運ぶ自転車を表で掃除するように」と言われました。翌日から皆が起きだす前に起きて自転車掃除をしました。すると今度は、時間が早すぎて皆が眠れないと怒られました。

 奥のほうから先輩順に持ち場が決まって箒で掃いてくるから、土間を掃くのは私の仕事になります。ところが一年先輩の彼は私が動くほうを狙って掃いてくる。数日してたまりかねて抗議をすると、熊本弁で言ったのが悪かったのか、「新入りが先輩に喧嘩を売ってきた」と非難されました。
 こうした事々も、丁稚修行の一つと思うしかありません。イジメに耐えられなくなると、夜中にそっと起きて外に出て、夜空を眺めることにしました。「あの星よりうんと小さな地球。その中の日本。またその中の大阪の一軒の店---。針の点にもならないところで起きていることではないか」「あとで思い出そうとしても憶えていないほどのちっぽけなことではないか」と、夜空の星と話していました。
 せっかく必死の思いでたどり着いた丁稚の道、絶対に辞めてなるものかとの思いでした。

 入社した日、店の布団を借りて寝ました。社長の奥さんからは、実家から布団を送ってもらうように、それまでは貸してあげるから、と言われて困りました。家には私の布団はありません。熊本へ帰る汽車賃にも満たない金額では布団代にもなりませんが、それを承知の上でお金を送って、どんな布団でもよいから送ってほしいと母に手紙を出しました。

  入社して数日後、出張先から専務が帰ってきました。
 専務の手荷物を運ぶようにと近くの駅まで迎えに行かされました。歩きながらの会話で専務が母に会ってきたことを知りました。
 そして、「何か困っていることはないか?」と問われました。
 私は正直に布団のことを話しました。実家に行って、おおよそを察していた専務はすぐに理解して、店の布団をそのまま使えるようにしてくれたのでした。
 周りから見ればたいしたことでなくとも、当人にとってはたいへんなこともあります。
 自分が経営者になってから続けていることがあります。新入社員を迎えて何日か経ったころ、「何か困っていることはないか?」と必ず聞くことにしています。

包装紙の代金は誰が払うのか - 丁稚時代の学び①

 私の商売の原点は、この丁稚時代に培われたと思っています。
 丁稚になって初日の仕事は一生忘れれることのできない一日でした。
 店の奥の方で靴下にシールを貼る作業でした。シール貼りを教えてくださったのが六十代半ばの社長の奥さん。後で思えば、これは、私に仕事を教えるのが目的ではなく、私を観察するのが目的だったようです。
 緊張の上、正座のまま数時間、足がしびれてトイレに行くのに立ち上がるのがたいへんでした。しかし連日続いた正座のおかげで、今でも胡坐でいるより正座のほうが楽に座れます。
 作業はしていても、お店には出させてもらえませんでした。しばらくして社長はその理由を教えてくれました。
 店は、品物を買いに来てくれるお客さん(小売屋さん)に買っていただいた儲けで成り立っている。大阪弁をしゃべることができない、品物の知識もない。そんな者を店に出すことは、お客さんに丁稚の教育までお願いすることになる。店としてそれはできないと言われました。
 私は、大阪弁をマスターすべく、熊本弁を封印。考える言葉も大阪弁にしました。
 品物を知るために寝る枕元に靴下を数点置いて目を瞑って触り、打ち込み具合、重量、使われている糸の番手(太さ)などを指での感触で想像して、翌朝起きて確かめました。
 店は地方の問屋への発送も多く、荷造りもかなりありました。
 私が荷造りをさせてもらえるようになって間もなくのことです。
 その日は荷造りの数が多い日でした。一人で頑張って終わりに近づいたときでした。私が荷造りをしている土間に社長が降りてきて、切り落とした縄の端を集めて私の目の前に持ってきました。そして、こう言いました。
 「これを全部合わせると、もうひと巻き、ふた巻きはできる」
 そう言われても私の目は、「まったく切り落としなしでやるのは無理です」と語っていたのでしょう。社長が、目の前で残った荷物に網をかけて荷造りを始めました。無駄がまったく出ません。
 私は、次の日から切り落としの出ない荷造りを心がけました。しばらくして、縄の無駄を出さない荷造りを終えて満足していると、社長に二階の説教部屋(私が勝手につけた)へ呼ばれました。
 部屋に入るや、「君はこの店を潰しに来たのか!」と怒られました。理由がわからずビックリしている私に、
「今日、入れた空箱の中に、まだ箱として使えるものを三箱入れているのを見た。箱として活かせる物を”死刑”にする権利が君にはあるのか。”蟻の一穴から堤が崩れること”を知らないのか!君はその蟻の一穴をつくっている。みんながそうすれば、一年間、一〇年間を考えるとたいへんなことになる」
 荷造りの際、ダンボールの空いたところを埋めるために入れた空箱について、社長は言っているのでした。怒られながらも、私の心の中ではうれしい気持ちでいっぱいになりました。「こういうことを学ぶために来たのだ」と。

 さらにこんなこともありました。
 店に買いに来た小売屋さんの商品を包装する紙は、ほとんどが新聞紙でした。商品をくくる紙ヒモは、工場から送られてきた荷のヒモを解いて、繋いで丸くしたものを転ばしながら使います。そのヒモが少なくなってくると、新しい紙ヒモなのに繋いで丸くして使っていました。
 普通に考えると、お客さんに商品を渡すときは、キレイな包装紙を使うのにと思いました。しかし、商売に厳しい大阪の商人は「靴下を買いに来るのであって、包装紙を買いには来ない。包装紙に金を掛けている分高い買い物をした」と思われる、と教えられました。
 私が二九歳を前にして電気工事業で独立してからの仕事においても、六〇歳を過ぎてから開発した木材の乾燥装置「愛工房」の設置理念についても、この教えがあったおかげです。
 広告や営業の上手さよりも中身の大切さ。相手が何を求めているかを考えて対処すること。これらは私にとっては当たり前のことなのです。
  広告の費用は、お客さんであるあなたが支払っていることに気づいてください。
 仕事を取ることより大切なことは、やった仕事の中身であり、仕事を終えた後なのです。電気工事も乾燥装置も、こちらが仕事を終えた日は、相手にとっては始まりだからです。

お客にウソをついてはいけない - 丁稚時代の学び②

 丁稚になって最大の収穫は「商売は下手になれ」でした。
 入社から五カ月ほどして経過して、店先でお客さんとの応対が許されるようになると、また社長に二階の説教部屋に呼ばれました。そして、「伊藤、商売は上手くなろうとするな。相手に上手いと思われたら商売人として失格だ。下手だと思われたら喜べ」と言われました。
 小学五年生の頃、早朝から天秤棒を担いでおばさん相手にアサリ貝を売り歩いていたことや、ふかしたサツマイモを魚市場で働く人たちに売っていたせいか、ものを買ってもらうコツが身についていたのを見抜いた社長からの忠告だったと思います。
 そして、「お客に嘘をついたらダメ。知らないことは知らないと言え。正直が一番だ」と教えられました。社長はそのころ七〇歳ぐらいで「正直(まさなお)」というお名前でした。

 翌年の4月になると高卒新入社員が三人、入社してきました。年齢は私より一歳上です。
 新入社員に対する社長の対応は、私のときとはまったく違っていました。この年から丁稚を育てるお店ではなくなり、普通の会社に変わっていくように感じました。
 社長にとって私が最後の丁稚だったのか。「間に合ってよかった」「儲かった」、そのとき思った正直な気持ちです。

丁稚時代に教わった大切なことは本当の商売でした。
 「商売」は「商」と「売」で出来ているということです。つまり、「商い」と「売る」の二つでセットになっています。ただし、あくまでも「商売」であって、「売商」ではありません。
 大事なのは「商」なのです。
 その証拠に商売をする人を商人と呼んでも売人とは呼びません。
 商人と書いて「あきんど」とも読みます。「商」に「い」を付けて、「あきない」と読みます。本当の商人は「あきない」をします、「飽きない」で続けます、「飽きない」ものを提供します。

 私は「愛工房」導入の要請があった場合、導入したいという相手に「利」があるのかどうかをよく話し合って、互いに納得して設置することにしています。何度も繰り返しますが、「愛工房」は設置することが目的ではなく、設置後に目的が始まります。
 本当に「良いもの」だったら、売るほうも、買うほうも「飽きない」で関係が続きます。
  本当に「良いもの」は大きな経費を掛けて「売り込む」必要はないのです。購入する人たちも、本当に「良いもの」は、いろんな手段で探せる時代になってきました。
 そのときの、キーワードは”生命”であって欲しいと願っています。
 人の生命。地球の生命。木の生命。

「買ってやる」ではなく、「売らせてもらう」 - 丁稚時代の学び③

 品物を知りたくて努力したおかげで商品の知識は身につきました。
 それが良かったのか悪かったのか、後から入社してきた人たちは外回りの営業や配達に行く中で、私だけは内勤が続きました。そして、いつの間にか仕入れの担当になっていました。
 そのころ、社長に教わったことは、「物を作るところがあるから物を売れる」、「仕入れてやる」というものではなく「作った靴下を売らせてもらう気持ちになるように」、と言われました。
 休日を利用して何カ所かの工場に行きました。夏の暑い盛りに工場に行くと、下着姿に近い格好で、汗まみれになって働いている若い女子工員たちを見て感動しました。
 そのころの工場にはクーラーどころか扇風機さえ見た記憶がありません。
  靴下を作る人たちがいるから、売ることができる。この単純で当たり前のこと、それを確認しました。

 その後、私が長年世話になる電気工事の世界でも、工事に必要な材料を売ってもらえるから電気工事ができる。その気持ちで電材問屋の人たちと接すると、気持ちよく仕事が進みました。

 また、現在、尾鷲「香素杉」を当社はかなりの量を売らせてもらっていますが、その際も、丁稚時代の体験が教訓として生きていると思います。良い商品をお客さんに届けるため、製材所の生産状況を聞き、納入先と調整して生産者が自信を持って出荷できる製品を送ってもらうようにしています。
 私は 畦地製材所の若社長の情熱と、木を見る目利きの確かさに信頼をおいていますので、注文する際はいつも、「あなたのところは自信を持って良い製品を作ってください。私たちはそれを売らせてもらいますから」とお伝えします。これは、尾鷲「香素杉」を購入するお客さんに対しての誓いでもあるのです。

 大阪での丁稚修行はあっという間の三年と二カ月でした。
 社長、専務にはありがたい気持ちでいっぱいでしたが、退社することを決意しました。
 勝手な思いですが、将来ご恩を返せる立場になって、お二人に返せない分、次の世代の人たちに返すことを心に誓いました。
 この気持ちは今までも、これからもずっと変わることはありません。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.218より

「お棺木浴」を体験して死生観へ氣づき

今、『大往生したけりゃ医療とかかわるな「自然死」のすすめ』(中村仁一、幻冬舎新書)という本が評判になっています。
 中村氏は、「自分の死」を頭の中であれこれ考えるよりも、具体的な行動を取ってみることを勧められ、15か条を挙げられました。その中の第7条にあたるのが、一番のお勧め、「棺桶を手に入れ、中に入ってみること」です。
 私も、それを素直に実行してみましたので、その体験談をお伝えします。
 まず、私が考える「死」とは、前にもお話したように、誕生で「(おぎゃ)あー」と産声をあげてから1日、1日、心と体の養生を重ね、最期のときは息を吸って、吸って、吸って、吐かないまま「ん」でそのときを迎えます。
 まさに「息を引き取る」わけですが、この「あうん」が「阿吽」、つまり密教で言うものごとの始まりと終わりのことわりを意味します。

 さて、「お棺木浴」の木材、杉は、むろん前項でご紹介した伊藤好則氏に製作をお願いしました。ちょうどタイミングよく当庵の感謝(患者)さんになられた島根県浜田市の建具屋・吉原重文氏に頼んで、超天然乾燥杉板の棺桶を作っていただきました。
 クギを1本も使わず、開き扉にちょうつがいのある棺桶です。「お棺木浴」を体験したのは、誕生日の5月15日でした。
 まず、私が妻に「生前は大変お世話になり、ありがとうございました。先に未来へ行きます」と神妙に挨拶してお棺に入りました。
 しかし、「さあ、死生観を醸そう!」としたのもつかの間、杉の香りにたちまち全身を包まれ、暖かくて、呼吸が深くなっていき、すぐに寝入ってしまいました。
 「お棺木浴」によって何が変わったのか。それはよくわかりませんが、今、私は、「あうん健康庵」前に流れる江の川の夕日を眺めながら、人生の夕日時に自分を重ね合わせています。
 今まで以上に、私たち夫婦でときめきながら、生かされて生きていることに想いを馳せ、人生の収穫期のことを考える日々になりました。

『祈りの力』
3章 P.94より

だれもやっていないことだから挑戦する-サーキットのナイター照明

 あらゆる電気工事をやってきましたが、一つだけどうしても忘れられない工事があります。サーキットのナイター照明工事です。
 1980年代当時は、空前のサーキットブーム。昼間だけの利用では追いつかないと、ナイター利用の計画が持ち上がり、サーキットの利用者側の代表からナイター設備工事の話が来たのです。

 たしかに電気工事をしていましたが、サーキットのナイター設備はまったく未知の世界。一応断ったのですが、「現場だけでも見に行こう」と誘いに来ました。
 再び私は「やったことがないので...」と言ったところ、
 「当たり前だ。サーキットのナイター設備はどこにもない。やった人がいるわけない」
 そう言われた私は、誰もやっていない、新しいことをやらせてくれる機会をいただけるなんてむしろありがたいことだと思い、現場に行くことにしました。
 生まれて初めて見たサーキットは、とにかく広くて、うるさいものでした。
 実はこの仕事、以前からサーキットに関わっている業者とのコンペだったことを知ったのは、仕事が決まってからのことでした。

 照明器具メーカーの協力を得て、私は現地調査を行ないました。前例がないわけですから、参考文献も何もない、まったく白紙の状態からの挑戦です。私はとにかく、走る人の立場、目線になって考えることを心掛けました。

私が設計する上で念頭においたのは、次の三点です。
①光源は、照射距離の範囲もあるが、高いほど良い(提案した高さは23m)。
②コースの進行方向は一定なので、背面の上部から照らすべき。
③霧や霧雨のときを考えると、透過率の良い高圧ナトリウムランプがベスト。

 なにもかもが初めてです。配線経路や施工方法を考えるのもたいへんでした。
 コンペの結果、23mの高さからの照射というアイディアと、予算の範囲内で実現できるという点が決め手となり、仕事が決まりました。ちなみにコンペの相手は背の高い街路灯で提案していたそうです。

 実際の施工では、走路の照度を均一にするのに苦労しました。しかも当時まだ四四歳と若かったこともあり、夜中までコースを歩き回って、すべての場所を照度測定して仕上げました。現在、木材乾燥をしているときに、重量、含水率を細かく測定してすべて記録を取るのですが、このときの経験と比較すれば、実に楽なものです。

 設置完了してすぐに行われた8月の「九時間耐久ナイターレース」では、実際に走ったドライバーたちの「満足した」というコメントがオートスポーツ専門誌に掲載されました。それを目にしたときは、苦労した甲斐があったと喜びました。そしてなによりも、初めてのナイター耐久レースで事故がなかったことが一番うれしかったです。この施設は、照明学会より「1985年照明普及賞」として表彰されました。

 誰もやったことがないから挑戦する。
 相手の立場になって考える。
 使う側の目線に立つことが大切だと知らされた。
 「愛工房」の開発においても、私は結局、同じ考え方で臨んでいました。ガンコ者の性と言われればそれまでですが、私自身は「愛工房」という湖に流れ込む一本一本の川の存在を発見した気持ちでいます。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.245より