嫌煙社長の禁煙講演活動

 全社員が非喫煙になったことで喫煙者と非喫煙者の職場における経済効果を数値に出してみました。すると、TBSテレビが早朝のニュース番組で放映しました。私が試算した数値と、ある労働組合での20万人を調査した数値とほとんど同じでした、とキャスターが話すのを聞いて、これには私が驚きました。

 NHKからの取材も何度かありました。1993年に埼玉県で開催された、アジア太平洋たばこ対策会議で「人材育成と職場の禁煙効果」を発表しました。

 このころになると、求人の目的で伺っていた高校やその周辺の中学校からの講演依頼がひっきりなしにありました。私は自分を育ててくれた人たちや社会に恩返しの時が来たと、仕事との都合が許す限り引き受けました。ただし、宿泊費、交通費などの費用は一切いただかないことを告げながら、講演を引き受ける際の条件として全校生徒と先生方全員の参加を申し入れました。そして、校長に必ず申し入れるのは、学校敷地内での非喫煙です。言葉は生徒に、心は先生に向けて話しました。

 講演で私は、生徒たちにも喫煙をやめなさいとは言いません。真実の情報を届けるだけでした。むしろ、子供たちにお願いに来たことを告げて、話を始めました。先生や親たちが知らないことをもし今日知ったら、両親や周囲の人たちにも教えてください、とお願いしました。

 タバコの話より先に、一人一人が選ばれた命であること、生命の大切さを訴えました。

 喫煙による健康への影響は、ガンになるリスクの話より、心臓病や脳に及ぼす影響を話しました。それよりも、喫煙者の親から生まれてくる赤ちゃんのオシッコから検出されるコチニンの話は相当ショックだったと思います。生まれた時からニコチン中毒です。

 また、タバコが地球環境を破壊している話には初めて聞くことで驚いたことと思います。
 WHO(世界保健機関)による当時の資料では、タバコの紙の原料や葉の乾燥などのために森林が毎年250万ヘクタール刈り取られていること。これは、九州全体の約半分です。

 火災の原因の第1位は放火で第2位がタバコの火の不始末。

 ただし、放火をした犯人が喫煙者かそうでないかの調査をしていることは聞きませんが、喫煙しない人でライターを持ち歩いている人はまずいないでしょう。

 森林火災も自然発火以外の原因はタバコの火の不始末がほとんどです。

 あるデータでは15歳から喫煙を続けた人の40%が50歳までに亡くなっていること。

 タバコ問題の会合で厚生省(当時)の部長から聞いたことも伝えました。喫煙が及ぼす健康被害について、大蔵省(当時)に行って未成年者への販売の規制ができないかと訴えた。すると担当の役人は、
「タバコの販売による税収は経済に貢献している。また、早めに亡くなってくれると年金を払わなくて済む。まして、若いころから喫煙をするということは、早くから税金を納めてくれる。こんなありがたいことはない」
こう言われたというのです。

 私は、講演の費用をいただかない代わりに、生徒たちからの感想文をいただきました。「あとは、私に任せてください」と書かれていた感想文を見た時は、お金をいくらもらうことよりも大きな「たから」をいただいた気分でした。

 余談になりますが、母校の中学校で講演した時は忘れられません。
 それは私のことを気にかけてくれて、在校中だけではなく、心配して大阪の丁稚先にまで来てくれた当時の校長先生が、講演する数ヶ月前に亡くなったからです。私を見守ってくれていた父親同様の先生は、東京で車で1時間とはかからない場所に住まわれていたので、よく伺っていました。私に「男がいったんやろうと決めたら、最後までやり通せ」と在校中に教えてくれた先生でした。

 この先生と同じ沖縄出身の、もう一人の先生の教えも私の財産の一つです。
小学五年生の時、世も明けない頃から天秤棒を担いでアサリ貝を売っていた時期、学校に行けない日が多かった頃、登校した日の授業時間で「天知る、地知る、我知る」という言葉を知りました。先生は、「悪いことをして他人はごまかせても、天と地と自分自身はだませないんだぞ」と私たちに教えてくれました。それを聞いていて子供心に「どんなことをしていたって恥じることはない、天と地それに自分はちゃんと知っているのだから」と孤独であった自分への慰めとして理解しました。そして、一生の宝にしようと思いました。

 その後、こうした言葉のおかげでどれだけ救われたことか知れません。私を育ててくれた先生方に報いるためにも、生徒たちの心に火をつける講演を心がけたつもりです。

 母校での講演の様子は、地元の新聞にカラーで大きく紹介されました。そのうえ、「嫌煙社長奮戦記」と題して、4日間連載されましたので、ますます講演の申し込みが増えました。

 

価値観を創るのは、いつの世も消費者

 タバコ問題をやってきたおかげで、私は一つのことを学びました。
それは1%でも消費者の意識が変われば、世の中が変わると言うことです。
20数年前と現在のタバコ事情を見ると、まさに隔世の感があります。新幹線では1車両だけが禁煙車両、あとは吸い放題、煙出し放題でした。それより前は、乗合バスもタクシーも乗客が喫煙しても当たり前、運転手が吸っても文句を言われることは、まずなかったのですから。

 今のような禁煙社会に変えたのは、企業でもなければ、行政でも政府でもありません。国民、つまり消費者が変えたのです。

「このままタバコを野放しにしていると、自分たちの子孫が危ない」
という思いが広がったから、社会が変わっていきました。
 だから杉の良さについても、みんなが気づけば必ず変わるという確信が、私にはあります。それは嫌煙活動と杉普及活動に共通点を見いだしているからです。
消費者に杉のすばらしさや高温乾燥材の危険性を伝えると、消費者は業界にいいものを求める。ひいては業界の供給側を動かします。

 社会を動かすのは、消費者です。逆に言えば、消費者が変わらないかぎり、正しい方向には行きません。私は愛工房を啓蒙して、この業界を変えるなんて大それたことは考えていません。気がついて調べて、愛工房にたどり着いた人だけを手伝ってあげたいのです。私は冷たい人間でしょうか?全員を救おうとすると宗教のようになるし、無理も生じる。人に押しつけてまで、自分の考えを広めたいとは思いません。
 それでも今後、消費者が自分で気がつく方向には持ってきたいという願いはあります。そのために必要なのは、情報の提供です。この本を執筆したのも、その取り組みの一つです。

 護るのは「杉」です。今まで、杉がいっぱいあるから、切り出して安く売るから買ってくださいと杉の生命を殺して、ダメな木の代表として取り扱っています。それより、杉の良さを引き出して、杉が素晴らしいもの、価値のあるものと消費者が知れば、杉の価格が現在のようにはならなかったと思います。

 経済優先、効率優先の陰で、生命は置いてけぼり。これは経済先進国の悲劇です。
 真実の情報を得た消費者が世の中を変えます。それがあなたであってほしいと心より思います。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.253より

私を変えた熊本時代の恩師

 熊本時代の私には、忘れられない二人の恩師がいます。

 東京の杉並区で生まれ、強制疎開で母の里、大分県の日田市に、その後、三重県の松坂市へ引っ越して終戦を迎え、父の郷里、熊本に伯父を頼って辿り着きました。父が生まれ育ったのは、い草の産地・八代ですが、そのころは、熊本市の一新小学校の正門の前で伯父が畳屋を経営していました。

 生活のために自ら決めた朝早くからの行商(アサリ貝売り)でしたが、順調に売れても学校の登校時間に間に合う時刻に家に帰ることが難しく、欠席する日が多かった小学5年生の夏、たまたま出席した日、「天知る・地知る・我知る」という言葉を、上里良蔵先生に教わりました。クラスのだれかが嘘をついたことに対しての説教だったのですが、私は自分なりに受け止め、この言葉はこの日から私の宝になりました。この言葉にどれほど励まされたことか、また、生き方を間違わずにこられたことか。今でも大切にしています。

 そしてもうひとり、西山中学校に通っていたときに出会った素晴らしい先生、又吉熊雄先生です。

 私が入学したときから卒業までの3年間、教頭をされておられましたが、卒業後も一生のお付き合いをすることになるとは夢にも思っていませんでした。2年、3年のときは、又吉先生の授業もありました。

 ある日、昼休みにソフトボールをする場所取りのため、グランドに行く近道としていつもと同様、教室の窓から飛び降りようとしたときのことです。その瞬間、すぐ近くに又吉先生の顔が見えたので、急いで教室のほうへ体を引っ込めると、大きな声で先生に呼ばれました。

 教室の窓から顔を出すと、又吉先生に「ここは君の通路かね。私に見られたからやめるのなら最初からやらんほうがいい。自分でやろうとした事は最後までやりなさい」と言われ、先生とクラスのみんなが見ている前で降りてグランドへ走りました。

 翌日から、窓から出ることはキッパリやめました。一生忘れることのない宝になりました。

 中学卒業の際、進路をまったく決めていなかったのは私だけでした。卒業したその日に職業安定所へ行き、紹介されたのが魚市場の仲買の店でしたが、すでに親戚の子が決まっているとのことでほかの仲買人を紹介されました。10日に一度、支払われる小遣い程度の給料で6カ月ほど働きましたが、母が下の妹と弟を連れて引っ越すことになりました。住む場所を求めて、新聞広告で寮のある仕事先を見つけて応募しました。

 上里先生は戦後沖縄から来られて小学3年生から卒業まで担任されました。中学でお世話になった又吉先生も沖縄のご出身です。このお二人に推薦文を書いていただいたお蔭で、1人の募集枠に採用されることができました。工員として働き、食べることや寝るところの心配のない生活を過ごせました。お二人の推薦状のお蔭だと感謝しました。

恩師の姿で思う、理想の人間の姿

 166頁で、大阪に行く決意を熊本城で誓ったと書きましたが、見えない力が導いてくれたかのように奇跡的なことが重なり、目的の丁稚になることができました。

 その年の8月のある暑い日、奥で商品のシール貼りをしていると、店の外に私を訪ねてきた人がいると言われました。でも私にはまったく心当たりがありません。外へ出てみると、なんと驚いたことにそこには又吉先生の姿がありました。その場でほんの少しの時間、何の話をしたのか記憶にはないのですが、とにかく嬉しかった。

 望んで覚悟して丁稚になったものの、仕事も生活もこれまでとはまったく違う世界の厳しさを味わっていたころでした。自分のことを心配して、見守ってくれている人がこの世にいることを知り、その後どれほどの励みになったことか。思い出すと、ありがたさに今でも涙が出ます。

 又吉先生は、私たちが卒業した年に西山中学校の校長になられましたが、同じ学校で長年教頭をされて校長になることは異例だそうです。私が独立し結婚したころには、先生のご一家は埼玉県所沢市に居を移しており、お宅へよくうかがいました。

 あるとき、大阪へ来てくださっとときのことを尋ねてみました。

 先生は夏休みの間、時間とお金の節約のため、通りがかりのトラックに乗せてもらいながら、生徒たちの就職先を訪問したそうです。なぜそうまでして、と聞くと「校長になって初めて送り出した子どもたちだ。高校へ進学した子どもたちは高校の先生方が心配してくれるが、中学校を出て世の中に出た子どもたちは、私たちが気に掛けてあげるのが当たり前でしょう。無理をしてでも多数の子どもたちと会いたかった 」とおっしゃいました。

 私は後輩たちの恩恵にあずかったことを知りました。そして、先生の懐の深さに触れて感銘を受けました。

 大人としてこうありたいと思いましたが、私には無理です。心に留めておき、そんな機会に遭遇したときはこのことを思い出して少しは近づけるようにすることと、あとは先生のご恩を忘れないことにしています。

 沖縄で生まれ育った又吉先生は、小学1年のときに父親を亡くし、その後は事情があって二人の伯母上に育てられたそうです。大恩ある伯母上から、「人様の大切な子ども。決して傷つけることのないよう、教育者としてこれだけは守るように」と忠告されたとお聞きしました。

 先生の奥様は先生のことを「感情で人を怒ったりしたことはありませんでした。どうすれば相手にわかってもらえるかをいつも考えて話していました」と話されました。

恩師の教えに感謝

 2013年の春の出来事は、又吉先生の教えがあったからこそ最良の方法を選択できました。

 それは10年ほど前からお世話になっている運送会社との出来事です。荷物を東北の荷受店に発送しておいて、当社から新幹線とレンタカーで引き取りに行ったところ、荷物が届いておらず、そのうえ、二重、三重のミスが重なり大変な迷惑を被りました。運送会社の本社社長と支店長に対して、経緯と内容の詳細書を書いて報告し、損害金の明細を添付して対処を求めました。

 投函した翌日、支店長が所員ひとりを伴って来所しました。支店長に初めてお会いしましたが、お相撲さん級の大柄な体を小さくしながら詫びの言葉を述べられました。

 私は不始末が起きた原因の検証、それにこれまでの若い担当者の態度に危惧していたこと、みなの日ごろからの仕事に対する姿勢が、担当者から始まり、ミスの連鎖を起こしたのではないかと話しました。今回のことは氷山の一角ではないかと思う、このままでは大勢のお客さんに迷惑を掛け、また、働いている人たち、企業のためにも悪くなる一方だとも伝えました。

 事実、品物が届かなかったために、当日と翌日、翌々日に仕事を予定していたお客様に迷惑を掛け、私は信用を失いました。当社として多大な迷惑を被ったことを訴えました。

 ひととおり話を聞いた支店長から、損害に対しての賠償額について打診がありました。

 私が「100」と言うと、支店長は一瞬、体を固くして息を呑んでいましたが、私が改めて、「100円で結構です」と伝えると、とても驚かれました。

 私は100円を提示した真意をゆっくりと心を込めて説明しました。また、10年近くもお世話になっていることに感謝していること、今後とも仕事をお願いすることを告げました。

 そして、担当者を替えないことを申し入れました。替えることでひとりの人格に傷をつけたくないこと、彼も貴社の大事な戦力のひとりであり、むしろ、彼が気づいて今後どう変わっていくのかが楽しみですから、と話しました。

 数日して支店長は、「お詫び状」と書いた書面を持ってきました。書面を見た私は、これでは受取れないと返すと、「お詫び状」の中の文章を変えて何度も通ってきました。そんなある日、私が求めているのは「詫び状」ではないことを告げました。
 2013年5月31日、私が待っていた書面を持ってきました。それが、以下の内容です。

「今後の進むべき道について」

 この度の納期遅れを起因とする当支店内の不始末につきましては、支店責任者として心からお詫び申し上げますとともに今後の支店運営に対し信頼回復に向け取組んでいく所存であります。

 今回の当支店の不始末において生じました貴社の損害金、290,074円に対して伊藤社長より解決金として100円とのご提案を頂きました。
 小職としましては驚きと戸惑いを感じましたが、100円を提案された伊藤社長の真意をご説明頂くにつれご厚情の深さと今後の責任の重さを痛感しました。同時に100円の数万倍の責務を感じた次第です。
 当支店の不始末により、顧客先への信頼失墜など、多大なご迷惑をお掛けしたにも拘わらず今後も西濃運輸をご利用下さることを明言される伊藤社長に心より感謝申し上げます。

 伊藤社長のご意向を全社員に伝え、小職を含め146名全員の確認印の書類を提出致します。一つのミスや手抜かりが荷物を預けられたお客様だけの迷惑に留まらず、大勢の方々に迷惑を掛け、信頼を失い多大な損害が生じることも、また、これまでに多くの先輩社員が積み上げてきた信頼をも崩してしまう結果になることを一人一人に訴え続けます。

 小職としましては、今回の不始末を教訓として、新・和光支店を築くにあたり、思いやりと誠意を持つ会社であり社員であること。
 初心にかえり、社員全員が責任と自覚を持つ職場として、お客様の大切な荷物を預かり、お預かりした荷物を確かにお届けする運送業に携わる仕事に誇りを持つように最大の努力を致します。
 お客様に信頼と安全をお届けする西濃運輸・和光支店と認められることが、今回の解決金100円に対する伊藤社長のご厚情にお応えすることと日々精進いたします。

 至らぬ点が多くありますが、伊藤社長には今後においても西濃運輸・和光支店を、暖かく、厳しく見守って頂き、ご指導頂ければ幸いです。

平成25年5月31日
西濃運輸株式会社 和光支店 支店長
森 裕之

当時の担当者は3年半を過ぎた現在も、この地区を担当して毎日がんばっています。以前の彼からすると別人と思うほどの気配りには満足しています。ほかの客先に対しても同様に対応していると思うと、無性に嬉しい気持ちになります。支店全体の対応も良くなったことを感じるのは、ひいき目からでしょうか。

 賠償金をいくらもらったとしても、この幸せは味わうことはできません。むしろ、地方からの発送などで困ったときにも最良の対処をしていただくなど、こちらが助けられています。損害を受けた金額よりも大きな徳を得ていることを実感しています。
 みんなが良くなることは最高の幸せです。
 又吉熊雄先生の教えに感謝です。

 

東京の杉並で生まれたこと、父の先祖の地、熊本で育ったことを、心から感謝しています。

 19歳に一度目の上京で1年あまりを過ごしたのが板橋、24歳を前にして再出発の上京の地も板橋、この板橋の地にすでに50数年の根を張っています。

 子どもを授からなかった代わりに「愛工房」という娘を授かりました。各地に嫁いで、しっかり働き、かわいがってもらうことを願って、我が娘、「愛工房」は送り出します。
 それに、木造ビルという息子を授かりました。この地に根を張り、各地から来られる方を迎えて、木造都市の夜明けを一緒に眺められること。最高です。

 誰もやっていないから、やる。まだまだ続きます。これからの出会いに期待し、一度しか味わえない人生を、みんなで大いに楽しみましょう。

『木造都市の夜明け』
エピローグ P.194より