「はたらく」のは権利

 

私は自分が働いているときに、幸せを感じます。
「はたらく」とは、自分が動くことで「はた」(傍)を「らく」(楽)にさせることだと思っています。

つまり、働くのは義務ではなくて、権利なのです。労働を義務と考えるからつらくなるのであって、権利と考えると一気に楽しくなります。

 私は、五十代に入ったころから、60歳からは本格的な「はたらく」をやりたいと考えていました。産んでもらって、生かしてもらって60年間、さまざまな人と出会い、勉強をさせてもらい、少しは知識も技術も身につけることができました。

 これからは、今までの経験を活かして「はたらく」。日本の子供たちや孫たちのために何かできるのではないか、いや、何かやらなければいけないという気持ちが膨らんでいました。

 船瀬俊介さんと講演で全国各地をまわって、地域のいろんな問題が見えてきました。出口昭弘先生に農業指導をお願いして一緒にまわっていたときも、それよりもっと前から九州の高校や中学校をまわって非喫煙運動をしていたときも、すべてが「人」「生命」「環境」に結びついていることに気付いたのです。

 問題の源が森林再生にあり、林業の活発化と安全な住まいの必要性、そのキーワードが杉の活用であることを知らされたのです。その杉が抱える大問題が乾燥にあることを知りました。

 日本の木、特に杉を生かし活かすための木材乾燥装置「愛工房」を開発させていただきました。次は「愛工房」を活用して杉の素晴らしさを知ってもらい、日本中の住まいに、公共の建物に、杉が使われることを夢見ています。そうなれば、おのずと日本の林業がよみがえり、森林が再生されます。

60代を大切に生きる法

 私の場合、19歳で上京したものの身体を壊して、航空自衛隊に入隊。この3年間で体を鍛えて、24歳前に再度上京。このとき考えたのは、あと1年間、見習いとして世の中のお世話になる。つまり、生まれてから25年間はまわりの人々に助けられて生きる期間。特に自衛隊にいた3年間、勉強や生活のために使われた費用はすべてが税金から。これからの働きで返さなければと思いました。

 そして、そのお返しをする期間を25年間とすると、そこで50歳になります。つまり、ここでプラス、マイナスがゼロになるのです。

 60歳までの10年間は、「働きたくても働けない人のために働く」期間と考えました。
 60歳が近づいてきた頃、生きている間に自分がやるべきこと、自分にしかできなことは何だろう?それを探しました。
 60歳を過ぎて電気工事業を卒業した後に始めたのが、木材乾燥装置の開発でした。
 60歳までに出会った人、物、ものごとはすべて、私にこの乾燥装置をつくらせるためだったのではないかと思っています。出会ったすべての人、すべてのものごとに感謝したい気持ちでいっぱいです。

 六十代で働くことは、それまでの知識、知恵、経験という財産を活かせること。
 六十代で働くことは、いずれ自分が世の中の負担になる時期に備えた貯蓄だ。
 七十代になって働けることは、働くことに喜びを感じて働くことにする。
 八十代になっても働ければ、働けることの幸せに感謝して楽しく働きたい。

 人一倍子供好きの私が44歳の時、子供を授からないその後の人生を受け入れました。その時が私の「はたらく」人生の折り返し点でした。88歳まで「はたらく」ことができれば、子供の分まで「はらたいた」ことになる。90歳で第二の卒業ができれば本望です。
 この世に生まれてきて、生かされてよかったと言える一人になれば本望です。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.272より

命に良い素材を施主が選ぶ時代に

建物は命を守る器です。経済や効率優先で建てる建物では一番大切な命を守れません。

私は、人の命、地球の命、木の命の大切さを当たり前のように訴え続けていこうと思います。

建物は基礎や構造体が頑丈でも、そこに住む人の命が守られなければ本末転倒です。

住まいは、住む人の命を守ってこそ住まいです。これが基本です。

赤ちゃんは超能力者です。命の危機を感じたら泣きます。

赤ちゃんが認めてくれる家は、安全な空気の家です。

ホコリを引き寄せる素材を使わない建物が、「本物の、健康住宅」です。

生きた素材が呼吸し、生き合う建物が「本物の、健康住宅」です。

安全な空気のある家「呼吸住宅」が、「本物の、高級住宅」です。

住む人が安心して命を預けることのできる建物が、「本物の、住まい」です。

住まいに使われる建材は、「命に良いものか、命に悪いいものか」で選ぶべきです。

住まいの中で、一番長い時間を過ごすのは、「寝室」です。

住まいの中で、一番大切な寝室は、「命を回復する」部屋です。

住まいの中で、一番大切なものは、「安全な空気」です。

今、私のところには、新築を予定されている方からの相談が年々多くなっています。
安全な住まいを求めてのことです。施主のみなさんが気づいてきました。
建物は命を預ける器。施主が勉強し、命に良い素材等を自らが選ぶ時代がやっと訪れました。

その中に、東京・中野区に2階建ての終の棲家を予定されているA子さんがいます。建物に使用するすべての木材を「愛工房」で乾燥した木材で建てたいとの目的で来られました。

私は、「部屋の間取りなど、そこに住む人、使う人が主になって計画案を書いてください。それを土台にして一緒に考えましょう」と言って進めました。

 「杉浴」にも再三参加されています。7月、熊本から帰ってから「杉浴」の参加者に「あじさい保育園」の話をしました。聞いていたA子さんは、株式会社シェルターから資料を取り寄せて勉強されたそうです。

打合せの最中、「伊藤さん、うちみたいな小さな建物はKES構法では建たないのでしょうね」と言われました。取り寄せた資料には、公共物件の大きな建物、住宅でも大断面の大きな建物が紹介されていて、延べ床面積20数坪の建物は見当たらないのですから、そう思われても仕方ありません。

 A子さんにしてみれば、できれば震度7に2度も耐えられたKES構法で建てたいとの思いを捨てきれずの相談でした。それと、木材は集成材ではなく「愛工房」で乾燥した無垢材を使いたい、この意向は変えられない、と言われました。

私はとてもありがたくA子さんの問いを受け止めました。じつは、私の方から勧めたかったことを施主から言ってきてくださったのです。

『木造都市の夜明け』
第3部 P.184より

嫌煙社長の禁煙講演活動

 全社員が非喫煙になったことで喫煙者と非喫煙者の職場における経済効果を数値に出してみました。すると、TBSテレビが早朝のニュース番組で放映しました。私が試算した数値と、ある労働組合での20万人を調査した数値とほとんど同じでした、とキャスターが話すのを聞いて、これには私が驚きました。

 NHKからの取材も何度かありました。1993年に埼玉県で開催された、アジア太平洋たばこ対策会議で「人材育成と職場の禁煙効果」を発表しました。

 このころになると、求人の目的で伺っていた高校やその周辺の中学校からの講演依頼がひっきりなしにありました。私は自分を育ててくれた人たちや社会に恩返しの時が来たと、仕事との都合が許す限り引き受けました。ただし、宿泊費、交通費などの費用は一切いただかないことを告げながら、講演を引き受ける際の条件として全校生徒と先生方全員の参加を申し入れました。そして、校長に必ず申し入れるのは、学校敷地内での非喫煙です。言葉は生徒に、心は先生に向けて話しました。

 講演で私は、生徒たちにも喫煙をやめなさいとは言いません。真実の情報を届けるだけでした。むしろ、子供たちにお願いに来たことを告げて、話を始めました。先生や親たちが知らないことをもし今日知ったら、両親や周囲の人たちにも教えてください、とお願いしました。

 タバコの話より先に、一人一人が選ばれた命であること、生命の大切さを訴えました。

 喫煙による健康への影響は、ガンになるリスクの話より、心臓病や脳に及ぼす影響を話しました。それよりも、喫煙者の親から生まれてくる赤ちゃんのオシッコから検出されるコチニンの話は相当ショックだったと思います。生まれた時からニコチン中毒です。

 また、タバコが地球環境を破壊している話には初めて聞くことで驚いたことと思います。
 WHO(世界保健機関)による当時の資料では、タバコの紙の原料や葉の乾燥などのために森林が毎年250万ヘクタール刈り取られていること。これは、九州全体の約半分です。

 火災の原因の第1位は放火で第2位がタバコの火の不始末。

 ただし、放火をした犯人が喫煙者かそうでないかの調査をしていることは聞きませんが、喫煙しない人でライターを持ち歩いている人はまずいないでしょう。

 森林火災も自然発火以外の原因はタバコの火の不始末がほとんどです。

 あるデータでは15歳から喫煙を続けた人の40%が50歳までに亡くなっていること。

 タバコ問題の会合で厚生省(当時)の部長から聞いたことも伝えました。喫煙が及ぼす健康被害について、大蔵省(当時)に行って未成年者への販売の規制ができないかと訴えた。すると担当の役人は、
「タバコの販売による税収は経済に貢献している。また、早めに亡くなってくれると年金を払わなくて済む。まして、若いころから喫煙をするということは、早くから税金を納めてくれる。こんなありがたいことはない」
こう言われたというのです。

 私は、講演の費用をいただかない代わりに、生徒たちからの感想文をいただきました。「あとは、私に任せてください」と書かれていた感想文を見た時は、お金をいくらもらうことよりも大きな「たから」をいただいた気分でした。

 余談になりますが、母校の中学校で講演した時は忘れられません。
 それは私のことを気にかけてくれて、在校中だけではなく、心配して大阪の丁稚先にまで来てくれた当時の校長先生が、講演する数ヶ月前に亡くなったからです。私を見守ってくれていた父親同様の先生は、東京で車で1時間とはかからない場所に住まわれていたので、よく伺っていました。私に「男がいったんやろうと決めたら、最後までやり通せ」と在校中に教えてくれた先生でした。

 この先生と同じ沖縄出身の、もう一人の先生の教えも私の財産の一つです。
小学五年生の時、世も明けない頃から天秤棒を担いでアサリ貝を売っていた時期、学校に行けない日が多かった頃、登校した日の授業時間で「天知る、地知る、我知る」という言葉を知りました。先生は、「悪いことをして他人はごまかせても、天と地と自分自身はだませないんだぞ」と私たちに教えてくれました。それを聞いていて子供心に「どんなことをしていたって恥じることはない、天と地それに自分はちゃんと知っているのだから」と孤独であった自分への慰めとして理解しました。そして、一生の宝にしようと思いました。

 その後、こうした言葉のおかげでどれだけ救われたことか知れません。私を育ててくれた先生方に報いるためにも、生徒たちの心に火をつける講演を心がけたつもりです。

 母校での講演の様子は、地元の新聞にカラーで大きく紹介されました。そのうえ、「嫌煙社長奮戦記」と題して、4日間連載されましたので、ますます講演の申し込みが増えました。

価値観を創るのは、いつの世も消費者

 タバコ問題をやってきたおかげで、私は一つのことを学びました。
それは1%でも消費者の意識が変われば、世の中が変わると言うことです。
20数年前と現在のタバコ事情を見ると、まさに隔世の感があります。新幹線では1車両だけが禁煙車両、あとは吸い放題、煙出し放題でした。それより前は、乗合バスもタクシーも乗客が喫煙しても当たり前、運転手が吸っても文句を言われることは、まずなかったのですから。

 今のような禁煙社会に変えたのは、企業でもなければ、行政でも政府でもありません。国民、つまり消費者が変えたのです。

「このままタバコを野放しにしていると、自分たちの子孫が危ない」
という思いが広がったから、社会が変わっていきました。
 だから杉の良さについても、みんなが気づけば必ず変わるという確信が、私にはあります。それは嫌煙活動と杉普及活動に共通点を見いだしているからです。
消費者に杉のすばらしさや高温乾燥材の危険性を伝えると、消費者は業界にいいものを求める。ひいては業界の供給側を動かします。

 社会を動かすのは、消費者です。逆に言えば、消費者が変わらないかぎり、正しい方向には行きません。私は愛工房を啓蒙して、この業界を変えるなんて大それたことは考えていません。気がついて調べて、愛工房にたどり着いた人だけを手伝ってあげたいのです。私は冷たい人間でしょうか?全員を救おうとすると宗教のようになるし、無理も生じる。人に押しつけてまで、自分の考えを広めたいとは思いません。
 それでも今後、消費者が自分で気がつく方向には持ってきたいという願いはあります。そのために必要なのは、情報の提供です。この本を執筆したのも、その取り組みの一つです。

 護るのは「杉」です。今まで、杉がいっぱいあるから、切り出して安く売るから買ってくださいと杉の生命を殺して、ダメな木の代表として取り扱っています。それより、杉の良さを引き出して、杉が素晴らしいもの、価値のあるものと消費者が知れば、杉の価格が現在のようにはならなかったと思います。

 経済優先、効率優先の陰で、生命は置いてけぼり。これは経済先進国の悲劇です。
 真実の情報を得た消費者が世の中を変えます。それがあなたであってほしいと心より思います。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.253より

まったくの無傷、奇跡の「あじさい保育園」

 この日、ぜひ行きたかったのが「あじさい保育園」です。「木山神宮」のすぐ近くでした。

 株式会社シェルターからいただいた資料によると、まったく被害がなかったとあり、これまで見てきた状況からは信じられないものでした。周辺の大きな被害を受けた建物と同じ軟弱な地盤に建っているのですから。

 関係者に確認したいと思いつつも、お忙しい最中、アポを取ることのほうが失礼との思いもあり、突然伺いました。

 園の敷地の中で立ち話をされていた方に挨拶をして名刺交換をすると、その方は理事長の前田晴重氏でした。来訪の用件を告げること数秒、「事務所へどうぞ」と案内されました。

 椅子に座るなり、前田氏のひと言に驚きました。
 「板橋区は一族が前から住んでいるところです。大野というんです」
 耳を疑うひと言でした。「愛工房」を設置し、生産工場として使用している高島平の建物の大家さんが大野さんだからです。2011年の11月に、前に借りていた建物の大家さんから突然出て行くよう言われて探し求め、翌年の初めから借りた建物です。なんだか身震いがしました。

 話が盛り上がり、午前11時ごろに突然お伺いして、気がつくと午後1時30分を過ぎていました。それから、建物内外の写真を撮らせてもらい退出したのは午後2時近くになっていました。

 建物の内外観の破損、被害はまったくない。空調機の室外機はもとより、外部の配管も外れたものやずれたものがないのには驚きました。周辺の惨状からはまったく想像できない光景です。

 なにより一番よかったのは、園の子どもたちの笑顔でした。子どもたちから声をかけてくれます。子どもたちからハイタッチもしてくれました。子どもたちから幸せをいただきました。

 前田氏の話の中で、お母さん方から「この園に子どもがいる間は安心」と言われて頂けるそうです。こんな園が全国に何カ所あるでしょうか。

 周辺と同じ軟弱な地盤に、震度7が2回、6強が2回、6弱が3回、それでも何ともなかった、という「あじさい保育園」の真実と情報がまったく伝えられていません。

 熊本市内に住む妹や姪たち、友人たち、もっと近いところで16日に南阿蘇を案内していただく、南阿蘇村に住み熊本市内に事務所のある九州中央経理の山本友晴社長、もっともっと近いところで、今日案内してくださっている藤本氏───。みんな私からの情報で「あじさい保育園」のことを知ったのです。

 これが現在の日本の情報の姿なのです。

 驚いたことに、震災後、テレビ局も園への取材は何度か来ているとのこと。それなのに、理事長が建物のことを話そうとすると、今日はそのことで来たのではないと告げられたと言います。いびつな情報伝達といえましょう。

 震災の惨状を知らせることは絶対に必要でしょう。ただ、大震災にも耐えたこのような情報も今後のためには必要です。たとえ取り上げる相手が広告を出す可能性がなくとも真実は伝えていかないと、マスコミは公共の役目を果たしているとはいえなくなります。インターネット時代の今日、あらゆる情報が一人歩きして広がるようになりました。テレビや新聞が自己都合を優先する調整された情報に甘んじていれば、近い将来必ず国民にソッポを向かれる日が来るはずです。

『木造都市の夜明け』
第3部 P.161より

私を変えた熊本時代の恩師

 熊本時代の私には、忘れられない二人の恩師がいます。

 東京の杉並区で生まれ、強制疎開で母の里、大分県の日田市に、その後、三重県の松坂市へ引っ越して終戦を迎え、父の郷里、熊本に伯父を頼って辿り着きました。父が生まれ育ったのは、い草の産地・八代ですが、そのころは、熊本市の一新小学校の正門の前で伯父が畳屋を経営していました。

 生活のために自ら決めた朝早くからの行商(アサリ貝売り)でしたが、順調に売れても学校の登校時間に間に合う時刻に家に帰ることが難しく、欠席する日が多かった小学5年生の夏、たまたま出席した日、「天知る・地知る・我知る」という言葉を、上里良蔵先生に教わりました。クラスのだれかが嘘をついたことに対しての説教だったのですが、私は自分なりに受け止め、この言葉はこの日から私の宝になりました。この言葉にどれほど励まされたことか、また、生き方を間違わずにこられたことか。今でも大切にしています。

 そしてもうひとり、西山中学校に通っていたときに出会った素晴らしい先生、又吉熊雄先生です。

 私が入学したときから卒業までの3年間、教頭をされておられましたが、卒業後も一生のお付き合いをすることになるとは夢にも思っていませんでした。2年、3年のときは、又吉先生の授業もありました。

 ある日、昼休みにソフトボールをする場所取りのため、グランドに行く近道としていつもと同様、教室の窓から飛び降りようとしたときのことです。その瞬間、すぐ近くに又吉先生の顔が見えたので、急いで教室のほうへ体を引っ込めると、大きな声で先生に呼ばれました。

 教室の窓から顔を出すと、又吉先生に「ここは君の通路かね。私に見られたからやめるのなら最初からやらんほうがいい。自分でやろうとした事は最後までやりなさい」と言われ、先生とクラスのみんなが見ている前で降りてグランドへ走りました。

 翌日から、窓から出ることはキッパリやめました。一生忘れることのない宝になりました。

 中学卒業の際、進路をまったく決めていなかったのは私だけでした。卒業したその日に職業安定所へ行き、紹介されたのが魚市場の仲買の店でしたが、すでに親戚の子が決まっているとのことでほかの仲買人を紹介されました。10日に一度、支払われる小遣い程度の給料で6カ月ほど働きましたが、母が下の妹と弟を連れて引っ越すことになりました。住む場所を求めて、新聞広告で寮のある仕事先を見つけて応募しました。

 上里先生は戦後沖縄から来られて小学3年生から卒業まで担任されました。中学でお世話になった又吉先生も沖縄のご出身です。このお二人に推薦文を書いていただいたお蔭で、1人の募集枠に採用されることができました。工員として働き、食べることや寝るところの心配のない生活を過ごせました。お二人の推薦状のお蔭だと感謝しました。

恩師の姿で思う、理想の人間の姿

 166頁で、大阪に行く決意を熊本城で誓ったと書きましたが、見えない力が導いてくれたかのように奇跡的なことが重なり、目的の丁稚になることができました。

 その年の8月のある暑い日、奥で商品のシール貼りをしていると、店の外に私を訪ねてきた人がいると言われました。でも私にはまったく心当たりがありません。外へ出てみると、なんと驚いたことにそこには又吉先生の姿がありました。その場でほんの少しの時間、何の話をしたのか記憶にはないのですが、とにかく嬉しかった。

 望んで覚悟して丁稚になったものの、仕事も生活もこれまでとはまったく違う世界の厳しさを味わっていたころでした。自分のことを心配して、見守ってくれている人がこの世にいることを知り、その後どれほどの励みになったことか。思い出すと、ありがたさに今でも涙が出ます。

 又吉先生は、私たちが卒業した年に西山中学校の校長になられましたが、同じ学校で長年教頭をされて校長になることは異例だそうです。私が独立し結婚したころには、先生のご一家は埼玉県所沢市に居を移しており、お宅へよくうかがいました。

 あるとき、大阪へ来てくださっとときのことを尋ねてみました。

 先生は夏休みの間、時間とお金の節約のため、通りがかりのトラックに乗せてもらいながら、生徒たちの就職先を訪問したそうです。なぜそうまでして、と聞くと「校長になって初めて送り出した子どもたちだ。高校へ進学した子どもたちは高校の先生方が心配してくれるが、中学校を出て世の中に出た子どもたちは、私たちが気に掛けてあげるのが当たり前でしょう。無理をしてでも多数の子どもたちと会いたかった 」とおっしゃいました。

 私は後輩たちの恩恵にあずかったことを知りました。そして、先生の懐の深さに触れて感銘を受けました。

 大人としてこうありたいと思いましたが、私には無理です。心に留めておき、そんな機会に遭遇したときはこのことを思い出して少しは近づけるようにすることと、あとは先生のご恩を忘れないことにしています。

 沖縄で生まれ育った又吉先生は、小学1年のときに父親を亡くし、その後は事情があって二人の伯母上に育てられたそうです。大恩ある伯母上から、「人様の大切な子ども。決して傷つけることのないよう、教育者としてこれだけは守るように」と忠告されたとお聞きしました。

 先生の奥様は先生のことを「感情で人を怒ったりしたことはありませんでした。どうすれば相手にわかってもらえるかをいつも考えて話していました」と話されました。

恩師の教えに感謝

 2013年の春の出来事は、又吉先生の教えがあったからこそ最良の方法を選択できました。

 それは10年ほど前からお世話になっている運送会社との出来事です。荷物を東北の荷受店に発送しておいて、当社から新幹線とレンタカーで引き取りに行ったところ、荷物が届いておらず、そのうえ、二重、三重のミスが重なり大変な迷惑を被りました。運送会社の本社社長と支店長に対して、経緯と内容の詳細書を書いて報告し、損害金の明細を添付して対処を求めました。

 投函した翌日、支店長が所員ひとりを伴って来所しました。支店長に初めてお会いしましたが、お相撲さん級の大柄な体を小さくしながら詫びの言葉を述べられました。

 私は不始末が起きた原因の検証、それにこれまでの若い担当者の態度に危惧していたこと、みなの日ごろからの仕事に対する姿勢が、担当者から始まり、ミスの連鎖を起こしたのではないかと話しました。今回のことは氷山の一角ではないかと思う、このままでは大勢のお客さんに迷惑を掛け、また、働いている人たち、企業のためにも悪くなる一方だとも伝えました。

 事実、品物が届かなかったために、当日と翌日、翌々日に仕事を予定していたお客様に迷惑を掛け、私は信用を失いました。当社として多大な迷惑を被ったことを訴えました。

 ひととおり話を聞いた支店長から、損害に対しての賠償額について打診がありました。

 私が「100」と言うと、支店長は一瞬、体を固くして息を呑んでいましたが、私が改めて、「100円で結構です」と伝えると、とても驚かれました。

 私は100円を提示した真意をゆっくりと心を込めて説明しました。また、10年近くもお世話になっていることに感謝していること、今後とも仕事をお願いすることを告げました。

 そして、担当者を替えないことを申し入れました。替えることでひとりの人格に傷をつけたくないこと、彼も貴社の大事な戦力のひとりであり、むしろ、彼が気づいて今後どう変わっていくのかが楽しみですから、と話しました。

 数日して支店長は、「お詫び状」と書いた書面を持ってきました。書面を見た私は、これでは受取れないと返すと、「お詫び状」の中の文章を変えて何度も通ってきました。そんなある日、私が求めているのは「詫び状」ではないことを告げました。
 2013年5月31日、私が待っていた書面を持ってきました。それが、以下の内容です。

「今後の進むべき道について」

 この度の納期遅れを起因とする当支店内の不始末につきましては、支店責任者として心からお詫び申し上げますとともに今後の支店運営に対し信頼回復に向け取組んでいく所存であります。

 今回の当支店の不始末において生じました貴社の損害金、290,074円に対して伊藤社長より解決金として100円とのご提案を頂きました。
 小職としましては驚きと戸惑いを感じましたが、100円を提案された伊藤社長の真意をご説明頂くにつれご厚情の深さと今後の責任の重さを痛感しました。同時に100円の数万倍の責務を感じた次第です。
 当支店の不始末により、顧客先への信頼失墜など、多大なご迷惑をお掛けしたにも拘わらず今後も西濃運輸をご利用下さることを明言される伊藤社長に心より感謝申し上げます。

 伊藤社長のご意向を全社員に伝え、小職を含め146名全員の確認印の書類を提出致します。一つのミスや手抜かりが荷物を預けられたお客様だけの迷惑に留まらず、大勢の方々に迷惑を掛け、信頼を失い多大な損害が生じることも、また、これまでに多くの先輩社員が積み上げてきた信頼をも崩してしまう結果になることを一人一人に訴え続けます。

 小職としましては、今回の不始末を教訓として、新・和光支店を築くにあたり、思いやりと誠意を持つ会社であり社員であること。
 初心にかえり、社員全員が責任と自覚を持つ職場として、お客様の大切な荷物を預かり、お預かりした荷物を確かにお届けする運送業に携わる仕事に誇りを持つように最大の努力を致します。
 お客様に信頼と安全をお届けする西濃運輸・和光支店と認められることが、今回の解決金100円に対する伊藤社長のご厚情にお応えすることと日々精進いたします。

 至らぬ点が多くありますが、伊藤社長には今後においても西濃運輸・和光支店を、暖かく、厳しく見守って頂き、ご指導頂ければ幸いです。

平成25年5月31日
西濃運輸株式会社 和光支店 支店長
森 裕之

当時の担当者は3年半を過ぎた現在も、この地区を担当して毎日がんばっています。以前の彼からすると別人と思うほどの気配りには満足しています。ほかの客先に対しても同様に対応していると思うと、無性に嬉しい気持ちになります。支店全体の対応も良くなったことを感じるのは、ひいき目からでしょうか。

 賠償金をいくらもらったとしても、この幸せは味わうことはできません。むしろ、地方からの発送などで困ったときにも最良の対処をしていただくなど、こちらが助けられています。損害を受けた金額よりも大きな徳を得ていることを実感しています。
 みんなが良くなることは最高の幸せです。
 又吉熊雄先生の教えに感謝です。

 

東京の杉並で生まれたこと、父の先祖の地、熊本で育ったことを、心から感謝しています。

 19歳に一度目の上京で1年あまりを過ごしたのが板橋、24歳を前にして再出発の上京の地も板橋、この板橋の地にすでに50数年の根を張っています。

 子どもを授からなかった代わりに「愛工房」という娘を授かりました。各地に嫁いで、しっかり働き、かわいがってもらうことを願って、我が娘、「愛工房」は送り出します。
 それに、木造ビルという息子を授かりました。この地に根を張り、各地から来られる方を迎えて、木造都市の夜明けを一緒に眺められること。最高です。

 誰もやっていないから、やる。まだまだ続きます。これからの出会いに期待し、一度しか味わえない人生を、みんなで大いに楽しみましょう。

『木造都市の夜明け』
エピローグ P.194より

 

時代のキーワードは「生命」

 一般的には、買うときは安く買ったことが得した気分になるものですが、長く使用するものは、使っているうちに買った時の値段よりも、その「もの」が良いか悪いかで評価されるのではないでしょうか。

本物は「もの」をつくる人たちがまず考えるべきことなのですが、買う人、使う人が真の健康、人と地球の未来を考えた選択をしだすと、「もの」をつくる人たちも変わらざるを得ません。

特に、一度建ててしまったら取り替えのきかない住まいの素材は、そこに住む人たちが「幸せ」になるか、「不幸」になるか、大きな責任を背負っています。

リフォームして体調が悪くなったり、待望の新築マイホームが原因で病気になってしまったら、たまったものではありません。住まいが原因で病気、その先にあるのは家庭崩壊と生命の危機です。

生命を守る住まいとは、呼吸する素材を使用している住まいを指します。
残念ながら、現代の日本の住まいを席巻しているハウスメーカーで使われている石油を原料とした化学建材には、化学物質を放出するものが多いのが現実です。人体の健康を損なうだけでなく、脳に対する影響もあると聞きます。最近は、昔では考えられないような犯罪があまりにも多くなっています。誤解を恐れずに言わせていただければ、近年の肉体的、精神的な障害の原因が住まいにある可能性が高いように思います。

どれだけ儲かるものをつくったとしても、それが環境を壊すものや生命を脅かすもの、そして将来的に負の遺産になるものであっては、絶対にいけません。子孫に何を残すのかが問われている時代です。

国策の名の下で、私たちの年代は生まれてまもなく戦争の犠牲になりました。そして今また、「原子力は国策」として進めてきたリスクを味わうことになっています。本来、国策とは国民のための対策であるべきはずなのに、国民を犠牲にする対策となっています。

目先の豊かさはもう結構。たとえ苦労しても、将来の幸せを目指す生き甲斐を求めたいものです。私は子供たちに、安心して暮らせる環境を残すお手伝いをしたいと心から思っています。

大量生産・大量消費・価格破壊の時代は、環境破壊・生命軽視の時代でもありました。これからは「生命優先」の時代にしないと、日本は「環境破壊先進国」として、いずれ世界中から非難を受けることになるでしょう。

「この品物は、あなたの生命を損ないます」

「こちらの品物は、生命を守ります」

されあなたはどちらを選びますか?

こう問われて、前者を選ぶという人はまずいないでしょう。
商品の善し悪しは、「生命に良いか、悪いか」が基準になる。そんな時代は、もうすぐそこまで来ています。キーワードは「生命」なのです。

環境を破壊するのは、常に大人たちです。子供たちに何を残すのか、何を残せるのか、何を残すべきか、いま真剣に考えて実践しないと、将来子供たちに恨まれるでしょう。私は、そんな大人でありたくありません。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.265より

今の住宅事情には、ご用心を!

 世界各国の住宅の寿命は、各国の住宅耐用年数比較表(木俣信行 表2・建築物の耐用に関する諸統計 財団法人・日本建築学会「木材研究・資料 第37号 2001年」)によると、イギリスの141年、アメリカ103年、フランス85年、ドイツ79年、日本30年とありました。
 日本のレベルが低いこともあってか、最近、日本でも「100年住宅」「200年住宅」という言葉をよく耳にするようになりました。しかし、それは実情を伴ったものなのでしょうか。

 建物の寿命だけでなく、そこに住む人の寿命を延ばす素材を使った住宅がほんものの住宅です。生きた木は建物になっても呼吸しています。動物たちが必要とするものを提供して動物たちが吐き出すもの(二酸化炭素)を吸収する。つまり、住まいの中で森林浴をさせてくれます。すでに100年を経過している、日本の本物の100年住宅には、天然乾燥で酵素が残っている、生きた木しか使われていません。

 しかし、最近よく耳にするハウスメーカーがこぞって「100年住宅」「200年住宅」と謳って売り出している建物は、残念ながら生きた木を使っていないものが多いようです。たとえその木が呼吸する木であっても表面に化学製品を張ってしまったら、木は殺されたも同然です。塗料も同じです。せっかく無垢材を使っていても、化学物質の入った塗料で呼吸を止めてしまっては無意味です。

 日本の住宅の90%で使用されているといわれる「ビニールクロス」、正確には、「塩化ビニール」は、アメリカの住宅では全体の10%ほどしか使われていないと聞きます。
 さらに、そうした塩化ビニールを使わずに木だけ使っていても、安心できません。日本のハウスメーカーの大手が「安い」という理由で使っている輸入材(外材)は、化学物質ににまみれているのが現状です。外国の産地で船積みされたほとんどの木材は、防虫、防カビ対策に大量の農薬が使われます。つまり、”毒漬け”されながら海を渡ってくるのです。こうした木に染みこんだ毒は、建物や家具に使われたのちに、少しずつ揮発するなど大気に出てきて、住まいの空間を毒の空間にしていくわけです。

 石油から生まれた化学物質で、身体も脳も冒される。そのうえ、世界一短命な住宅のみならず、そこに住む人も短命になる住まい---。
 日本の住宅は、消費者の知らないところで、ひどい状況にあります。
 とはいえ、知っている人は知っています。しかも、意外な人が...。
 2010年の春、大阪で新築を予定している施主さんが、建築会社の社長と一緒に愛工房にやって来ました。施主さんはその建築会社に、仕上げ材は愛工房で乾燥した板材を使用するように指示していました。

 完成後、再び愛工房に来られた建築会社の社長のお話では、この施主さんは打ち合わせ段階から天然素材にこだわり、化学建材の仕様をいっさい認めなかったそうです。あらゆる方面から集めた情報の資材使用を厳しく要求されるので、一時はお断りしようかと思ったほどだったといいます。

 厳しい要求をしつづけた施主さんのお勤め先を聞いて、私は「やっぱり」と思いました。近く定年を迎えるこの施主さんは、誰もが知っている、建材・建築も関連している有名な化学製品メーカーの重役さんだったのです。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第1章 P.47より

日本人だからこそ成し遂げられる《木・呼吸・微生物》超先進文明の創造 5月26日出版

自然共生のナチュラル・サイエンスへ 伊藤好則・船瀬俊介ほか

これぞ、行き止まりのない地球 《すずあかの道》の歩み方

これから日本の杉をどうするのか。
そこから日本文明の本質へ迫ることができる。呼吸する木、微生物の生きている木、45度Cでの乾燥が奇跡の杉を生み出した。木造都市の夜明けが始まったのだ。

使われなくなった田畑をどうするのか。
そこからも日本文明の本質に迫らなくてはならい。宝物を生み出す田畑は住宅地の10分の1の値段しかつかない。なぜなのか?愛工房の杉が縁でその歪みを正すヒントが生まれた。

黒芯の杉さえも宝物に変える「愛工房」を杉山へ設置できたなら。奇跡の杉を使った超付加価値の建造物、家具が作れたなら。過疎の里村が蘇生する。杉伐採の跡地で伝統のごぼう栽培を復活させた桃原の試みとは?

巡り合わせと出会いの運命が始まった

 6月中旬、夕方の夜行列車で大阪に出発です。中学時代の同級生数人が見送りに来てくれました。希望に胸を膨らませて、などといった心境にはまったくなれず、不安でいっぱいでした。関門トンネルに入ってからやっと座席で眠ることができました。
 朝、大阪に着いて市役所の運転手の控え室に行ったものの、紹介状に示されている人は知らないと言われてしまいます。ガードを探しに行くべきかと思っていたら、居合わせた人がひょっとして児童文化会館に居る人じゃないかと教えてくれました。そして私の様子を見て不憫に思ったのか、仕事を済ませたら送ってやるからと、すぐ帰ってきて送ってくれました。関西人の情けを十分に感じました。

 連れて行かれた先の運転手は紹介された方でしたが、それからがたいへん。紹介状を読むなり、すぐ「熊本に帰ってくれ」と言います。帰る汽車賃もない手前、なんとかお願いして、その夜は泊めていただけることになりました。
 翌日、奥さんに付き添われて地域の職業安定所に行きましたが、東大阪のほうで工員の募集はあるものの、丁稚の募集はまったくなし、奥さんは工員を薦めます。給料もいいし、いまどき丁稚になりたいなんておかしいと言われましたが、私は丁稚になるために一大決心でここまで来たのです。職安の担当者にひたすらお願いしました。すると、近くにいたその日赴任したという職員が、前の勤務地で店員の募集があったことを思い出して、問い合わせてくれました。
 なんと丁稚の仕事があったのです。
 工員募集の給料よりはるかに安い額を見て、奥さんはまた工員を薦めますが、私は、寝る場所と食事さえいただければ無給でもよかったのです。
 その足で奥さんも一緒にお店へ行ってくれました。私は丁稚になりたいことを、店のご主人に一生懸命訴えました。

 翌々日、番頭さんが迎えに来てくれました。
 面接を受けた靴下問屋の主な得意先は九州でした。出張中の専務(お婿さん)は、私が面接に行った翌日が偶然にも熊本の得意先でした。その日、母に会って身元と家出ではないことを確認してきたことを後日知りました。
 大阪での偶然と偶然の連鎖は、いま考えても信じられないほどです。何に感謝すべきなのでしょうか。こんな巡り合わせを思い出すたびに胸が、目頭が熱くなります。

「何か困っていることはないか?」

お店は時代劇で見たことのあるような佇まいです。畳の上に高さを違えた傾斜のある板の台を置いて、その上に靴下を並べています。お客さんは土間に立って商品を見て、店員は畳の上に正座で応対します。夜はその商品台を片付けて、奥の方から先輩順に布団を並べて寝ます。

 住み込み初日の朝、先輩たちが起きるのに合わせて起きると、同じ歳の一年先輩から「新入りが皆と一緒に起きてはダメだ。皆が起きる前に荷物を運ぶ自転車を表で掃除するように」と言われました。翌日から皆が起きだす前に起きて自転車掃除をしました。すると今度は、時間が早すぎて皆が眠れないと怒られました。

 奥のほうから先輩順に持ち場が決まって箒で掃いてくるから、土間を掃くのは私の仕事になります。ところが一年先輩の彼は私が動くほうを狙って掃いてくる。数日してたまりかねて抗議をすると、熊本弁で言ったのが悪かったのか、「新入りが先輩に喧嘩を売ってきた」と非難されました。
 こうした事々も、丁稚修行の一つと思うしかありません。イジメに耐えられなくなると、夜中にそっと起きて外に出て、夜空を眺めることにしました。「あの星よりうんと小さな地球。その中の日本。またその中の大阪の一軒の店---。針の点にもならないところで起きていることではないか」「あとで思い出そうとしても憶えていないほどのちっぽけなことではないか」と、夜空の星と話していました。
 せっかく必死の思いでたどり着いた丁稚の道、絶対に辞めてなるものかとの思いでした。

 入社した日、店の布団を借りて寝ました。社長の奥さんからは、実家から布団を送ってもらうように、それまでは貸してあげるから、と言われて困りました。家には私の布団はありません。熊本へ帰る汽車賃にも満たない金額では布団代にもなりませんが、それを承知の上でお金を送って、どんな布団でもよいから送ってほしいと母に手紙を出しました。

  入社して数日後、出張先から専務が帰ってきました。
 専務の手荷物を運ぶようにと近くの駅まで迎えに行かされました。歩きながらの会話で専務が母に会ってきたことを知りました。
 そして、「何か困っていることはないか?」と問われました。
 私は正直に布団のことを話しました。実家に行って、おおよそを察していた専務はすぐに理解して、店の布団をそのまま使えるようにしてくれたのでした。
 周りから見ればたいしたことでなくとも、当人にとってはたいへんなこともあります。
 自分が経営者になってから続けていることがあります。新入社員を迎えて何日か経ったころ、「何か困っていることはないか?」と必ず聞くことにしています。

包装紙の代金は誰が払うのか - 丁稚時代の学び①

 私の商売の原点は、この丁稚時代に培われたと思っています。
 丁稚になって初日の仕事は一生忘れれることのできない一日でした。
 店の奥の方で靴下にシールを貼る作業でした。シール貼りを教えてくださったのが六十代半ばの社長の奥さん。後で思えば、これは、私に仕事を教えるのが目的ではなく、私を観察するのが目的だったようです。
 緊張の上、正座のまま数時間、足がしびれてトイレに行くのに立ち上がるのがたいへんでした。しかし連日続いた正座のおかげで、今でも胡坐でいるより正座のほうが楽に座れます。
 作業はしていても、お店には出させてもらえませんでした。しばらくして社長はその理由を教えてくれました。
 店は、品物を買いに来てくれるお客さん(小売屋さん)に買っていただいた儲けで成り立っている。大阪弁をしゃべることができない、品物の知識もない。そんな者を店に出すことは、お客さんに丁稚の教育までお願いすることになる。店としてそれはできないと言われました。
 私は、大阪弁をマスターすべく、熊本弁を封印。考える言葉も大阪弁にしました。
 品物を知るために寝る枕元に靴下を数点置いて目を瞑って触り、打ち込み具合、重量、使われている糸の番手(太さ)などを指での感触で想像して、翌朝起きて確かめました。
 店は地方の問屋への発送も多く、荷造りもかなりありました。
 私が荷造りをさせてもらえるようになって間もなくのことです。
 その日は荷造りの数が多い日でした。一人で頑張って終わりに近づいたときでした。私が荷造りをしている土間に社長が降りてきて、切り落とした縄の端を集めて私の目の前に持ってきました。そして、こう言いました。
 「これを全部合わせると、もうひと巻き、ふた巻きはできる」
 そう言われても私の目は、「まったく切り落としなしでやるのは無理です」と語っていたのでしょう。社長が、目の前で残った荷物に網をかけて荷造りを始めました。無駄がまったく出ません。
 私は、次の日から切り落としの出ない荷造りを心がけました。しばらくして、縄の無駄を出さない荷造りを終えて満足していると、社長に二階の説教部屋(私が勝手につけた)へ呼ばれました。
 部屋に入るや、「君はこの店を潰しに来たのか!」と怒られました。理由がわからずビックリしている私に、
「今日、入れた空箱の中に、まだ箱として使えるものを三箱入れているのを見た。箱として活かせる物を”死刑”にする権利が君にはあるのか。”蟻の一穴から堤が崩れること”を知らないのか!君はその蟻の一穴をつくっている。みんながそうすれば、一年間、一〇年間を考えるとたいへんなことになる」
 荷造りの際、ダンボールの空いたところを埋めるために入れた空箱について、社長は言っているのでした。怒られながらも、私の心の中ではうれしい気持ちでいっぱいになりました。「こういうことを学ぶために来たのだ」と。

 さらにこんなこともありました。
 店に買いに来た小売屋さんの商品を包装する紙は、ほとんどが新聞紙でした。商品をくくる紙ヒモは、工場から送られてきた荷のヒモを解いて、繋いで丸くしたものを転ばしながら使います。そのヒモが少なくなってくると、新しい紙ヒモなのに繋いで丸くして使っていました。
 普通に考えると、お客さんに商品を渡すときは、キレイな包装紙を使うのにと思いました。しかし、商売に厳しい大阪の商人は「靴下を買いに来るのであって、包装紙を買いには来ない。包装紙に金を掛けている分高い買い物をした」と思われる、と教えられました。
 私が二九歳を前にして電気工事業で独立してからの仕事においても、六〇歳を過ぎてから開発した木材の乾燥装置「愛工房」の設置理念についても、この教えがあったおかげです。
 広告や営業の上手さよりも中身の大切さ。相手が何を求めているかを考えて対処すること。これらは私にとっては当たり前のことなのです。
  広告の費用は、お客さんであるあなたが支払っていることに気づいてください。
 仕事を取ることより大切なことは、やった仕事の中身であり、仕事を終えた後なのです。電気工事も乾燥装置も、こちらが仕事を終えた日は、相手にとっては始まりだからです。

お客にウソをついてはいけない - 丁稚時代の学び②

 丁稚になって最大の収穫は「商売は下手になれ」でした。
 入社から五カ月ほどして経過して、店先でお客さんとの応対が許されるようになると、また社長に二階の説教部屋に呼ばれました。そして、「伊藤、商売は上手くなろうとするな。相手に上手いと思われたら商売人として失格だ。下手だと思われたら喜べ」と言われました。
 小学五年生の頃、早朝から天秤棒を担いでおばさん相手にアサリ貝を売り歩いていたことや、ふかしたサツマイモを魚市場で働く人たちに売っていたせいか、ものを買ってもらうコツが身についていたのを見抜いた社長からの忠告だったと思います。
 そして、「お客に嘘をついたらダメ。知らないことは知らないと言え。正直が一番だ」と教えられました。社長はそのころ七〇歳ぐらいで「正直(まさなお)」というお名前でした。

 翌年の4月になると高卒新入社員が三人、入社してきました。年齢は私より一歳上です。
 新入社員に対する社長の対応は、私のときとはまったく違っていました。この年から丁稚を育てるお店ではなくなり、普通の会社に変わっていくように感じました。
 社長にとって私が最後の丁稚だったのか。「間に合ってよかった」「儲かった」、そのとき思った正直な気持ちです。

丁稚時代に教わった大切なことは本当の商売でした。
 「商売」は「商」と「売」で出来ているということです。つまり、「商い」と「売る」の二つでセットになっています。ただし、あくまでも「商売」であって、「売商」ではありません。
 大事なのは「商」なのです。
 その証拠に商売をする人を商人と呼んでも売人とは呼びません。
 商人と書いて「あきんど」とも読みます。「商」に「い」を付けて、「あきない」と読みます。本当の商人は「あきない」をします、「飽きない」で続けます、「飽きない」ものを提供します。

 私は「愛工房」導入の要請があった場合、導入したいという相手に「利」があるのかどうかをよく話し合って、互いに納得して設置することにしています。何度も繰り返しますが、「愛工房」は設置することが目的ではなく、設置後に目的が始まります。
 本当に「良いもの」だったら、売るほうも、買うほうも「飽きない」で関係が続きます。
  本当に「良いもの」は大きな経費を掛けて「売り込む」必要はないのです。購入する人たちも、本当に「良いもの」は、いろんな手段で探せる時代になってきました。
 そのときの、キーワードは”生命”であって欲しいと願っています。
 人の生命。地球の生命。木の生命。

「買ってやる」ではなく、「売らせてもらう」 - 丁稚時代の学び③

 品物を知りたくて努力したおかげで商品の知識は身につきました。
 それが良かったのか悪かったのか、後から入社してきた人たちは外回りの営業や配達に行く中で、私だけは内勤が続きました。そして、いつの間にか仕入れの担当になっていました。
 そのころ、社長に教わったことは、「物を作るところがあるから物を売れる」、「仕入れてやる」というものではなく「作った靴下を売らせてもらう気持ちになるように」、と言われました。
 休日を利用して何カ所かの工場に行きました。夏の暑い盛りに工場に行くと、下着姿に近い格好で、汗まみれになって働いている若い女子工員たちを見て感動しました。
 そのころの工場にはクーラーどころか扇風機さえ見た記憶がありません。
  靴下を作る人たちがいるから、売ることができる。この単純で当たり前のこと、それを確認しました。

 その後、私が長年世話になる電気工事の世界でも、工事に必要な材料を売ってもらえるから電気工事ができる。その気持ちで電材問屋の人たちと接すると、気持ちよく仕事が進みました。

 また、現在、尾鷲「香素杉」を当社はかなりの量を売らせてもらっていますが、その際も、丁稚時代の体験が教訓として生きていると思います。良い商品をお客さんに届けるため、製材所の生産状況を聞き、納入先と調整して生産者が自信を持って出荷できる製品を送ってもらうようにしています。
 私は 畦地製材所の若社長の情熱と、木を見る目利きの確かさに信頼をおいていますので、注文する際はいつも、「あなたのところは自信を持って良い製品を作ってください。私たちはそれを売らせてもらいますから」とお伝えします。これは、尾鷲「香素杉」を購入するお客さんに対しての誓いでもあるのです。

 大阪での丁稚修行はあっという間の三年と二カ月でした。
 社長、専務にはありがたい気持ちでいっぱいでしたが、退社することを決意しました。
 勝手な思いですが、将来ご恩を返せる立場になって、お二人に返せない分、次の世代の人たちに返すことを心に誓いました。
 この気持ちは今までも、これからもずっと変わることはありません。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.218より