久し振りの矢山クリニック

 矢山利彦先生とのご縁は、船瀬俊介氏が同郷の先輩であったことからです。船瀬氏との出会いは経営する電気工事会社の社員による喫煙との戦いに一番苦しんでいた頃です。

 大阪千日デパートの火災で118名の死者を知ったことが、タバコとの戦いの始まりです。電気工事従事者のタバコの火の不始末が原因と知り、先ず自分自身の断煙に挑戦、これに5年を費やし、ニコチンとの戦いに克ったと確信がもてるまでに5年、ニコチン依存症のコワサを確りと体感しました。社員の健康、現場の安全を願って、当時約半数の非喫煙者には5千円の手当てを支給して喫煙者に断煙を勧めるが、効果はない。苦戦の連続でした。

 この頃、私たち夫婦は子どもを授からないことを受け入れることに、そこで選んだのは、学卒求人です。寮と自宅を兼ねた本社ビルを建設、妻は、寮の新入社員たちの朝食、夕食をつくりました。しかし、高校卒業して入社して間もない子どもたちが、タバコを止められずに次々と退社しました。今では考えられない喫煙の世界です。高校・中学・小学の喫煙経験者の割合が、7・5・3とも言われた頃です。先輩たちの喫煙が作用している事は当然の事です。また、職場が建築の作業場、休憩の合図が「いっぷくしょうか」の世界です。
 全員がタバコを吸わない会社になることなど、夢のまた夢、奇跡の世界でした。

 挫折寸前のところで出会ったのが「たばこ問題情報センター」の渡辺文学氏です。
 タバコに関する勉強会を頻繁に行い、喫煙問題に取り組み始めて9年、全社員の非喫煙会社が誕生、この月より1万円の非喫煙手当を全員(18名)に支給した給料日、感無量でした。

 やはり本当の情報に勝る薬はないことを思い知りました。このことは「たばこ問題情報センター」の機関誌「禁煙ジャーナル」で紹介されました。求人活動で訪問している高校や周辺の中学校からの講演依頼も多く、地元の新聞で紹介されると、学校訪問が求人活動か講演活動か分からない状態になりました。また、学校の敷地内での禁煙を強く訴えました。

 そのころ、職場における禁煙の経済効果を具体的な数値で発表するとNHKを始め各メディアで、その数値が紹介されました。日本人は数字に強い、だから数字には弱い。

 1993年埼玉県大宮市(当時)で開催された、第3回「アジア太平洋タバコ対策会議」において「人財育成と職場の禁煙効果」でもそのことを発表しました。

 たばこ問題の会合で出会った船瀬氏とは同じ九州人としても意気投合、互いの講演活動に同行することが多く、建築、風景、環境問題の取材など忙しくなった頃、そこで起きたのが船瀬氏のお嬢さんが医療過誤で命を絶たれた事件でした。

 この事件の翌年から私は、本格的に船瀬氏のマネージャー業を始めました。
この年が電気工事業を卒業すると決めていた60歳、私はその年齢になったのでした。
 この事件を船瀬氏は法廷で医療過誤損害賠償訴訟を本人訴訟で戦い奇跡と思われた医療過誤事件の勝訴判決を得ました。薬害、医療関係との戦いを執筆、講演活動が始まりました。

 矢山先生から現在のクリニックを建築する際に相談を受け、阪神淡路大震災で3階建て木造住宅73棟のうち延焼した1棟を除き72棟全てが無傷だったKES構法、その会社を紹介するために山形県の(株)シェルターへ案内しました、が、これは実りませんでした。

 その後、船瀬氏と一緒に竣工間もないクリニックへ伺った際、「愛工房」で乾燥した黒芯の杉板を矢山先生に披露するとその板を抱え込み「でちょる、でちょる、気がでちょる」と言って、私の手元には戻ってきませんでした。先生は愛工房から生まれた、黒杉の素晴らしさを最初に認め、商品開発の基をつくってくれました。

 注文をいただいた杉のお盆、クリニックで使っていただいて既に10年以上にもなります。

 船瀬氏が到着するまでの間、診療を終えた矢山先生と久し振りの懇談となり、感激した先程のトコトコ、ニコニコの天使の話しをしました。すると、先生、いきなり椅子から立ち上がり大きな声で「伊藤さんにジェラシーば感じるバイ、わしが近づいても寄って来んと」と、私も隣の村田さんもビックリ、「私を杉の木に見えたんじゃないの」と、私。幼い子どもたちは超能力者です、先生の後ろには大勢の人たちの「命」が負ぶさっているからでしょう。先生はそれがお仕事ですから宿命ですよ、先生は大勢の人たちの命を救っています、と、慰めにもならない話しとなりました。

 程なくして船瀬氏の到着、先生は日本刀での試技、その切っ先に立った船瀬氏の取材、お二人の真剣な動作を黙って見ている私、ここでは静かな傍観者でいました。

 翌日コスミックエナジー研究所へ伺って感動しました。移転前の事務所で使われていた100枚以上の杉板パネル、その全てが移し活かされていました。そのことは聞いてはいても、自分の目で見て体で感じて感動し、写真を撮りまくりました。

 事務所は9階建てビルの4階、この日、暖房機を稼働していないと聞きましたが寒くないのです、これには驚きました。

 それ以上に驚いたのは、山鹿まで行ってから福岡空港まで送ってくださるとの村田さんの申し出でした。予約していたレンタカーをキャンセル、お蔭でいろんな話ができました。

 村田さんのお住まいが糸島市であることを知りました。

 山鹿へ向かっている途中に携帯電話で知らされたことは、糸島の人たちの到着が予定より遅れるとの事でした。
 予定していた時間も短かった上に、慌ただしい視察となりました。
 住友林業の人が搭乗する飛行機の時刻を盛んに気にしていました。
 私たちは余裕を持って福岡空港へ向かい、空港では村田さんに頂いた一冊を読みました。

 事務所で村田さんに二冊の本を頂きました。一冊は「体内革命!自力でがんを消す方法」(幻冬舎)。もう一冊は「舩井幸雄の魂が今語りかけてきたこと」(ヒカルランド)、この本は、空港と帰りの機内で大半を、翌日一気に読み終えました。おこがましい言い方ですが、矢山先生の発想と信念、生き様を少しは理解できたような気になりました。
 素晴らしい人との出会いは人生の財産であることに共鳴しました。
読み終えて直ぐに20冊を購入、来所する人たちに薦めています。

 よく、あの人とは気が合うと言われますが、お互いの体の中にある「水」が合うことだと思います。人の身体の殆どが水なのですから。

 東京へ帰ってからも、脳裏に残るトコトコ、ニコニコの天使の姿を思い出してはニヤニヤしている自分がいました。

 2009年秋の出来事を思い出しました、板橋区高島平の保育園で0歳児の教室を愛工房乾燥の杉材でリフォーム終えた直後のこと、教室の床に座って見回していると正座している私の膝の上に男の子がチョコンと、同行していた石原氏急いで写真を撮りました、しかも、すぐ近くには次は自分の番だとの姿勢をした子も写っています。

 その数日後伺うと先日の子とは違う子が、高さ70㎝程の柵に捕まって私に抱っこ要求のゼスチャー、保母さんに断り抱きかかえると、その子はしがみついてきました。男の人に抱かれることは無いのにと不思議なものを見る目でつぶやく保母さん。

 別れる際に下へ降ろすのも大変でした。小さな天使たちも今では10歳になります。今も手元にある、チョコンとの写真を見る度にあの日のことが蘇ります。

 この天使たちに「なに」を残し、「なに」を渡せるのか、私たち大人はどうできますか。