出会いと気づき

 私は人生の財産は、「出会い」から始まるものと信じて出会いを大切にしてきました。
出会いとは、「人」、「もの」、「ものごと」、との出会いです。

2017年2月20日、こちらのコラムへの寄稿依頼のメールがありました。翌日、電話をすると担当者は香川県の出身で当社のホームページにより、私が3月12日に高松市で講演することを知っていました。
「人・地球・木の命」(あなたの日常は木があることで、こんなに変わる)。

これが、高松市の山奥、大福院での講演会のタイトルでした。
この度の寄稿に際しては基本的には自由とのことですから、木製木材乾燥装置「愛工房」のこと、その「愛工房」から産まれる「ほんもの」の製品のこと、できごとなど、講演で話したことなどを含めて書き進めることにします。
なお、今年1月発刊の『木造都市の夜明け』、それと5年前発刊の、『樹と人に無駄な年輪はなかった』(何れも三五館)からの引用もあります、興味のある方は冊子をお読みいただければ幸いです。

(本コラムの寄稿依頼の)メールをいただく2日前の2月18日にあることに出会いました。
数か月前に依頼され、試作を幾度か重ね、数日前に最終の試作品を渡していた杉の小箱、その杉の小箱を使った商品を紹介する写真を依頼主が持参し、「この本に掲載します」と言われて覗き込んだ冊子の表紙には『月刊船井本舗 ほんものや』と書かれていました。
2010年2月号に月刊『ザ・フナイ』「森」特集の中で私の寄稿文「日本の杉に思う」が掲載されたこと、月刊『ザ・フナイ』に連載中の船瀬俊介氏とは30年来の心友として氏の事務所を引き受けていた話しなど、何かの縁を感じることを依頼者に話しました。その2日後にこの度の寄稿依頼です、誰か何処かで操作したのでしょうか。……ありがとうございます。

「木・人・地球」の命。このテーマで進めて参りますが、その前に大地震が起きた熊本を書かせていただきます。私を育ててくれた熊本です。
私は1941年に東京の杉並区に産まれ、強制疎開で母の郷里大分県の日田へ、その後三重県の松阪で終戦を迎え、父の郷里、熊本へ。
熊本に住み始めて間もないころに出会った出来事は子ども時代の生きる原点となりました。それは、向かいの家で数日前までは見かけていた小学生のお姉さんがその日は違うお姉さんに変わっていたので、その家のおばさんに聞くと、「熊本駅で拾ってきた。働きの悪うて飯ばかり食うけん、捨てに行った。また、拾ってきたと」と言います。
それを聞いて、親のいる自分は幸せだと思いました。そのことがあってからはどんなことに出会っても、どんな目にあっても自分が不幸だと思うことがなかったことは幸せでした。
あの時のお姉さんたちはどうなったのか、子ども心にもずっと気に掛かっていました。戦争の一番の犠牲者は弱い立場の人です。戦争は絶対にダメ、ずっと思い続けています。

私が小学校4年生になった初夏、弟が生まれ、兄と2人の妹、生活は益々苦しくなりました。母は生まれて間もない弟を抱いて職業安定所へ行き土木作業に(日当240円のニコヨンと言われていました)、母が働いている間は、木陰で休憩時間になるまで、まだ首のすわらない弟を抱いて立っていました。
職業安定所へ行くには早朝、通学する小学校の横を通ります。母に聞こえるような小声で「学校行きたくなかもん」、母は聞こえないふりをしていたが辛かったと思います。職安で仕事にありつかない日は、もっと辛い日となりました。
その頃は、食べるため、生きるために、皆が必死になって命を守りました。今の人たちの方が命を粗末にしているのではと思うことが多々見受けられます。
すぐに夏休みとなり出席日数は何とか満たして進級しました。

5年生になり、人生の宝となる言葉に出会いました。その頃は夜も明けない暗いうちに起き出して熊本駅へ行き、有明海で獲れたアサリ貝を仕入れて朝餉用に売り歩きました。
前後のザルの中に担げる限りのアサリ貝、と言っても小学5年生が担げる量は限られています。前後のザルに入ったアサリ貝を天秤棒で担いで大きな声を出しての商いでした。
ただ、通学する学校の生徒たちに出会いたくないので学校とは反対方向に売り先を求めたため、帰るための時間がかかり、出席しても大遅刻となり欠席することが多くなりました。目算通りには売れない日については登校するのは不可能でした。
そんな中、たまたま出席した日に教わった言葉が、「天知る、地知る、我知る」でした。
先生は、誰かが嘘をついたことへの説教だったのですが、私には別の意味として捕え、この日から、この言葉にどれほど励まされ、救われたことか知れません。アサリ貝のシーズンが終わると、魚市場で、ふかしたサツマイモ(熊本ではカライモと言います)を早朝から市場で働く人たちに売ってまわりました。
出席日数が少なく6年生への進級が危うかったことは当然で、そのことは、後年、東京の青梅市に居を移されていた先生からも伺いました。私が東京で暮らすようになってから、近郊に住んでいる級友や上京してきた級友を誘って伺うと先生は大変喜ばれていました。
6年生からは新聞配達の仕事に就き、毎月固定した収入があることに喜びを感じました。

中学校では卒業後もお世話になった大恩人、素晴らしい恩師との出会いがありました。そのことについは、前記2冊の本に記しました。
中学を卒業した翌年、工場で働いていた際に病院で出会った32歳の方の一言で人生が変わりました。
「君には若さという財産がある。私が君ほど若かったら大阪で丁稚修行をして、その経験を東京で活かす」と。それはまるで天の声のように聞こえました。
さっそく、準備といっても何もない、16歳の体と夢があるだけでした。大阪へ出立する前日、3人の友人と熊本城で会いました。熊本城は卒業した西山(せいざん)中学校からも近く、一新(いっしん)小学校からからはもっと近くて遊ぶ場所でもありました。その頃には天守閣はなく、だだっ広い敷地をただ黙々と歩き廻りました。
帰るための汽車賃の持ち合わせもない、肝心の就職先は大阪に着いてから探す、そんな身では何を話すこともなく、「天知る」「地知る」「我知る」を忘れず、自分に正直に生きて精一杯働く、絶対に何とかする、決意と希望だけは胸一杯に膨らませ、熊本城と自分に誓ったことは忘れられません。
大阪駅に着き、大阪市役所へ行ってから奇跡的な経緯で丁稚になれたことは、拙著『樹と人に無駄な年輪はなかった』で詳しく述べています。帰熊の折は、再建された天守閣のある熊本城に、報告すること、それが希望のともし火でした。

船井幸雄.com コラム
2017.04.10(第76回)より