千島博士の「死」の捉え方

 あらゆる生物の死亡率は100%、誰も死から逃れることはできません。だから、多くの人が、死生観を語ってきたのでしょう。
 千島博士もその1人です。博士は「死」をどのように捉えていたのでしょうか。まず、博士は、生と死は、楯の両面であり、「生」なくしては「死」はなく、「死」なくしては「生」もないとしています。

 「死は、生のきっかけ=契機である」という哲学的な考え方をされ、「細胞の死によって、バクテリアが新しく生まれること(新生)」をカエルの観察で確認されました。
 千島博士は、昭和29(1954)年、カエルの赤血球が腐敗していく過程をずっと観察し、赤血球から、バクテリアの桿菌が発生する事実を顕微鏡で捉えました。そこで、「死」は「生」のきっかけであることを実証されたのです。
 そして、人間も高等動物も、腸内細菌と共生しなければ生きていけないことを、とくに、腸内乳酸菌のおかげで、お互いに生かされて生きているとしたのです。そこにあるのは、弱肉強食ではなく、共存共栄の思想であり、それは人生観にも通じるものとしました。
「自然や生命は、生と死を連続的に繰り返して、螺旋的な反復を通じて、生物は進化している」と説かれました。
 これは、東洋、仏教思想の「輪廻」と通じるものであり、あらゆる生物に共通するものです。その第一は、樹木です。地球から人類がいなくなっても樹木は生きられますが、樹木がなくなれば、人間は生きられません。
 しかし、多くのところでご神木とされている杉は、一方では、増加し続ける花粉症の元凶にもされています。杉の学名「クリプトメリア・ジャポニカ」には、日本の財産という意味が隠されていることを忘れてはいけません。
 たしかに、第二次大戦後、国の方針で盛んに植林されてきた杉やひのきは、緑豊かな国のシンボル的な存在でした。しかし、手入れが行き届かず、間伐もされていない「放置人工林」ばかりになっています。
 太陽の光もほとんど入らず、もやしのようなひょろひょろの木や倒れてしまったものもあります。

 落葉樹ならば、腐葉土が作られますが、杉の葉は腐らないので、降り注ぐ雨も流れ、下草も生えず、石が露出し、生命力の消えた世界が広がっています。
そうすると、人類などの動物を活かす最大要素の水に影響が出てきます。水質が落ち、界面活性剤の流入がそれに拍車をかけ、川や海の水質汚染は広がるばかり、珪素や鉄分の不足をきたして、生態系全体のバランスが崩れてきます。

 ただ、幸いなことに、日本の山林業の救世主というべき人も誕生しています。その1人が、『樹と人に無駄な年輪はなかった』(三五館)の著者・伊藤好則氏です。
 伊藤氏は、乾燥させるのが難しく、外国材に押され気味になっている日本の杉の現状を憂い、研究に研究を重ねて、45度を標準温度とした低温木材乾燥装置を開発しました。熱源は電気を使い、全部木でできています。
 そして、「変色なし」「薬効を失わない」「酵素を損なわない」「色」「艶」「香り」の3拍子がそろった「香素杉」を誕生させたのです。
 伊藤氏は、「これは奇跡だ!」と評される木材乾燥装置を「愛工房」と名づけ、この生まれ変わった杉材を広めるために、「アイ・ケイ・ケイ」と名づけた会社を設立しています。

『祈りの力』
3章 P.90より

「お棺木浴」を体験して死生観へ氣づき

今、『大往生したけりゃ医療とかかわるな「自然死」のすすめ』(中村仁一、幻冬舎新書)という本が評判になっています。
 中村氏は、「自分の死」を頭の中であれこれ考えるよりも、具体的な行動を取ってみることを勧められ、15か条を挙げられました。その中の第7条にあたるのが、一番のお勧め、「棺桶を手に入れ、中に入ってみること」です。
 私も、それを素直に実行してみましたので、その体験談をお伝えします。
 まず、私が考える「死」とは、前にもお話したように、誕生で「(おぎゃ)あー」と産声をあげてから1日、1日、心と体の養生を重ね、最期のときは息を吸って、吸って、吸って、吐かないまま「ん」でそのときを迎えます。
 まさに「息を引き取る」わけですが、この「あうん」が「阿吽」、つまり密教で言うものごとの始まりと終わりのことわりを意味します。

 さて、「お棺木浴」の木材、杉は、むろん前項でご紹介した伊藤好則氏に製作をお願いしました。ちょうどタイミングよく当庵の感謝(患者)さんになられた島根県浜田市の建具屋・吉原重文氏に頼んで、超天然乾燥杉板の棺桶を作っていただきました。
 クギを1本も使わず、開き扉にちょうつがいのある棺桶です。「お棺木浴」を体験したのは、誕生日の5月15日でした。
 まず、私が妻に「生前は大変お世話になり、ありがとうございました。先に未来へ行きます」と神妙に挨拶してお棺に入りました。
 しかし、「さあ、死生観を醸そう!」としたのもつかの間、杉の香りにたちまち全身を包まれ、暖かくて、呼吸が深くなっていき、すぐに寝入ってしまいました。
 「お棺木浴」によって何が変わったのか。それはよくわかりませんが、今、私は、「あうん健康庵」前に流れる江の川の夕日を眺めながら、人生の夕日時に自分を重ね合わせています。
 今まで以上に、私たち夫婦でときめきながら、生かされて生きていることに想いを馳せ、人生の収穫期のことを考える日々になりました。

『祈りの力』
3章 P.94より