「はたらく」のは権利

 

私は自分が働いているときに、幸せを感じます。
「はたらく」とは、自分が動くことで「はた」(傍)を「らく」(楽)にさせることだと思っています。

つまり、働くのは義務ではなくて、権利なのです。労働を義務と考えるからつらくなるのであって、権利と考えると一気に楽しくなります。

 私は、五十代に入ったころから、60歳からは本格的な「はたらく」をやりたいと考えていました。産んでもらって、生かしてもらって60年間、さまざまな人と出会い、勉強をさせてもらい、少しは知識も技術も身につけることができました。

 これからは、今までの経験を活かして「はたらく」。日本の子供たちや孫たちのために何かできるのではないか、いや、何かやらなければいけないという気持ちが膨らんでいました。

 船瀬俊介さんと講演で全国各地をまわって、地域のいろんな問題が見えてきました。出口昭弘先生に農業指導をお願いして一緒にまわっていたときも、それよりもっと前から九州の高校や中学校をまわって非喫煙運動をしていたときも、すべてが「人」「生命」「環境」に結びついていることに気付いたのです。

 問題の源が森林再生にあり、林業の活発化と安全な住まいの必要性、そのキーワードが杉の活用であることを知らされたのです。その杉が抱える大問題が乾燥にあることを知りました。

 日本の木、特に杉を生かし活かすための木材乾燥装置「愛工房」を開発させていただきました。次は「愛工房」を活用して杉の素晴らしさを知ってもらい、日本中の住まいに、公共の建物に、杉が使われることを夢見ています。そうなれば、おのずと日本の林業がよみがえり、森林が再生されます。

60代を大切に生きる法

 私の場合、19歳で上京したものの身体を壊して、航空自衛隊に入隊。この3年間で体を鍛えて、24歳前に再度上京。このとき考えたのは、あと1年間、見習いとして世の中のお世話になる。つまり、生まれてから25年間はまわりの人々に助けられて生きる期間。特に自衛隊にいた3年間、勉強や生活のために使われた費用はすべてが税金から。これからの働きで返さなければと思いました。

 そして、そのお返しをする期間を25年間とすると、そこで50歳になります。つまり、ここでプラス、マイナスがゼロになるのです。

 60歳までの10年間は、「働きたくても働けない人のために働く」期間と考えました。
 60歳が近づいてきた頃、生きている間に自分がやるべきこと、自分にしかできなことは何だろう?それを探しました。
 60歳を過ぎて電気工事業を卒業した後に始めたのが、木材乾燥装置の開発でした。
 60歳までに出会った人、物、ものごとはすべて、私にこの乾燥装置をつくらせるためだったのではないかと思っています。出会ったすべての人、すべてのものごとに感謝したい気持ちでいっぱいです。

 六十代で働くことは、それまでの知識、知恵、経験という財産を活かせること。
 六十代で働くことは、いずれ自分が世の中の負担になる時期に備えた貯蓄だ。
 七十代になって働けることは、働くことに喜びを感じて働くことにする。
 八十代になっても働ければ、働けることの幸せに感謝して楽しく働きたい。

 人一倍子供好きの私が44歳の時、子供を授からないその後の人生を受け入れました。その時が私の「はたらく」人生の折り返し点でした。88歳まで「はたらく」ことができれば、子供の分まで「はらたいた」ことになる。90歳で第二の卒業ができれば本望です。
 この世に生まれてきて、生かされてよかったと言える一人になれば本望です。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.272より

嫌煙社長の禁煙講演活動

 全社員が非喫煙になったことで喫煙者と非喫煙者の職場における経済効果を数値に出してみました。すると、TBSテレビが早朝のニュース番組で放映しました。私が試算した数値と、ある労働組合での20万人を調査した数値とほとんど同じでした、とキャスターが話すのを聞いて、これには私が驚きました。

 NHKからの取材も何度かありました。1993年に埼玉県で開催された、アジア太平洋たばこ対策会議で「人材育成と職場の禁煙効果」を発表しました。

 このころになると、求人の目的で伺っていた高校やその周辺の中学校からの講演依頼がひっきりなしにありました。私は自分を育ててくれた人たちや社会に恩返しの時が来たと、仕事との都合が許す限り引き受けました。ただし、宿泊費、交通費などの費用は一切いただかないことを告げながら、講演を引き受ける際の条件として全校生徒と先生方全員の参加を申し入れました。そして、校長に必ず申し入れるのは、学校敷地内での非喫煙です。言葉は生徒に、心は先生に向けて話しました。

 講演で私は、生徒たちにも喫煙をやめなさいとは言いません。真実の情報を届けるだけでした。むしろ、子供たちにお願いに来たことを告げて、話を始めました。先生や親たちが知らないことをもし今日知ったら、両親や周囲の人たちにも教えてください、とお願いしました。

 タバコの話より先に、一人一人が選ばれた命であること、生命の大切さを訴えました。

 喫煙による健康への影響は、ガンになるリスクの話より、心臓病や脳に及ぼす影響を話しました。それよりも、喫煙者の親から生まれてくる赤ちゃんのオシッコから検出されるコチニンの話は相当ショックだったと思います。生まれた時からニコチン中毒です。

 また、タバコが地球環境を破壊している話には初めて聞くことで驚いたことと思います。
 WHO(世界保健機関)による当時の資料では、タバコの紙の原料や葉の乾燥などのために森林が毎年250万ヘクタール刈り取られていること。これは、九州全体の約半分です。

 火災の原因の第1位は放火で第2位がタバコの火の不始末。

 ただし、放火をした犯人が喫煙者かそうでないかの調査をしていることは聞きませんが、喫煙しない人でライターを持ち歩いている人はまずいないでしょう。

 森林火災も自然発火以外の原因はタバコの火の不始末がほとんどです。

 あるデータでは15歳から喫煙を続けた人の40%が50歳までに亡くなっていること。

 タバコ問題の会合で厚生省(当時)の部長から聞いたことも伝えました。喫煙が及ぼす健康被害について、大蔵省(当時)に行って未成年者への販売の規制ができないかと訴えた。すると担当の役人は、
「タバコの販売による税収は経済に貢献している。また、早めに亡くなってくれると年金を払わなくて済む。まして、若いころから喫煙をするということは、早くから税金を納めてくれる。こんなありがたいことはない」
こう言われたというのです。

 私は、講演の費用をいただかない代わりに、生徒たちからの感想文をいただきました。「あとは、私に任せてください」と書かれていた感想文を見た時は、お金をいくらもらうことよりも大きな「たから」をいただいた気分でした。

 余談になりますが、母校の中学校で講演した時は忘れられません。
 それは私のことを気にかけてくれて、在校中だけではなく、心配して大阪の丁稚先にまで来てくれた当時の校長先生が、講演する数ヶ月前に亡くなったからです。私を見守ってくれていた父親同様の先生は、東京で車で1時間とはかからない場所に住まわれていたので、よく伺っていました。私に「男がいったんやろうと決めたら、最後までやり通せ」と在校中に教えてくれた先生でした。

 この先生と同じ沖縄出身の、もう一人の先生の教えも私の財産の一つです。
小学五年生の時、世も明けない頃から天秤棒を担いでアサリ貝を売っていた時期、学校に行けない日が多かった頃、登校した日の授業時間で「天知る、地知る、我知る」という言葉を知りました。先生は、「悪いことをして他人はごまかせても、天と地と自分自身はだませないんだぞ」と私たちに教えてくれました。それを聞いていて子供心に「どんなことをしていたって恥じることはない、天と地それに自分はちゃんと知っているのだから」と孤独であった自分への慰めとして理解しました。そして、一生の宝にしようと思いました。

 その後、こうした言葉のおかげでどれだけ救われたことか知れません。私を育ててくれた先生方に報いるためにも、生徒たちの心に火をつける講演を心がけたつもりです。

 母校での講演の様子は、地元の新聞にカラーで大きく紹介されました。そのうえ、「嫌煙社長奮戦記」と題して、4日間連載されましたので、ますます講演の申し込みが増えました。

価値観を創るのは、いつの世も消費者

 タバコ問題をやってきたおかげで、私は一つのことを学びました。
それは1%でも消費者の意識が変われば、世の中が変わると言うことです。
20数年前と現在のタバコ事情を見ると、まさに隔世の感があります。新幹線では1車両だけが禁煙車両、あとは吸い放題、煙出し放題でした。それより前は、乗合バスもタクシーも乗客が喫煙しても当たり前、運転手が吸っても文句を言われることは、まずなかったのですから。

 今のような禁煙社会に変えたのは、企業でもなければ、行政でも政府でもありません。国民、つまり消費者が変えたのです。

「このままタバコを野放しにしていると、自分たちの子孫が危ない」
という思いが広がったから、社会が変わっていきました。
 だから杉の良さについても、みんなが気づけば必ず変わるという確信が、私にはあります。それは嫌煙活動と杉普及活動に共通点を見いだしているからです。
消費者に杉のすばらしさや高温乾燥材の危険性を伝えると、消費者は業界にいいものを求める。ひいては業界の供給側を動かします。

 社会を動かすのは、消費者です。逆に言えば、消費者が変わらないかぎり、正しい方向には行きません。私は愛工房を啓蒙して、この業界を変えるなんて大それたことは考えていません。気がついて調べて、愛工房にたどり着いた人だけを手伝ってあげたいのです。私は冷たい人間でしょうか?全員を救おうとすると宗教のようになるし、無理も生じる。人に押しつけてまで、自分の考えを広めたいとは思いません。
 それでも今後、消費者が自分で気がつく方向には持ってきたいという願いはあります。そのために必要なのは、情報の提供です。この本を執筆したのも、その取り組みの一つです。

 護るのは「杉」です。今まで、杉がいっぱいあるから、切り出して安く売るから買ってくださいと杉の生命を殺して、ダメな木の代表として取り扱っています。それより、杉の良さを引き出して、杉が素晴らしいもの、価値のあるものと消費者が知れば、杉の価格が現在のようにはならなかったと思います。

 経済優先、効率優先の陰で、生命は置いてけぼり。これは経済先進国の悲劇です。
 真実の情報を得た消費者が世の中を変えます。それがあなたであってほしいと心より思います。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.253より

時代のキーワードは「生命」

 一般的には、買うときは安く買ったことが得した気分になるものですが、長く使用するものは、使っているうちに買った時の値段よりも、その「もの」が良いか悪いかで評価されるのではないでしょうか。

本物は「もの」をつくる人たちがまず考えるべきことなのですが、買う人、使う人が真の健康、人と地球の未来を考えた選択をしだすと、「もの」をつくる人たちも変わらざるを得ません。

特に、一度建ててしまったら取り替えのきかない住まいの素材は、そこに住む人たちが「幸せ」になるか、「不幸」になるか、大きな責任を背負っています。

リフォームして体調が悪くなったり、待望の新築マイホームが原因で病気になってしまったら、たまったものではありません。住まいが原因で病気、その先にあるのは家庭崩壊と生命の危機です。

生命を守る住まいとは、呼吸する素材を使用している住まいを指します。
残念ながら、現代の日本の住まいを席巻しているハウスメーカーで使われている石油を原料とした化学建材には、化学物質を放出するものが多いのが現実です。人体の健康を損なうだけでなく、脳に対する影響もあると聞きます。最近は、昔では考えられないような犯罪があまりにも多くなっています。誤解を恐れずに言わせていただければ、近年の肉体的、精神的な障害の原因が住まいにある可能性が高いように思います。

どれだけ儲かるものをつくったとしても、それが環境を壊すものや生命を脅かすもの、そして将来的に負の遺産になるものであっては、絶対にいけません。子孫に何を残すのかが問われている時代です。

国策の名の下で、私たちの年代は生まれてまもなく戦争の犠牲になりました。そして今また、「原子力は国策」として進めてきたリスクを味わうことになっています。本来、国策とは国民のための対策であるべきはずなのに、国民を犠牲にする対策となっています。

目先の豊かさはもう結構。たとえ苦労しても、将来の幸せを目指す生き甲斐を求めたいものです。私は子供たちに、安心して暮らせる環境を残すお手伝いをしたいと心から思っています。

大量生産・大量消費・価格破壊の時代は、環境破壊・生命軽視の時代でもありました。これからは「生命優先」の時代にしないと、日本は「環境破壊先進国」として、いずれ世界中から非難を受けることになるでしょう。

「この品物は、あなたの生命を損ないます」

「こちらの品物は、生命を守ります」

されあなたはどちらを選びますか?

こう問われて、前者を選ぶという人はまずいないでしょう。
商品の善し悪しは、「生命に良いか、悪いか」が基準になる。そんな時代は、もうすぐそこまで来ています。キーワードは「生命」なのです。

環境を破壊するのは、常に大人たちです。子供たちに何を残すのか、何を残せるのか、何を残すべきか、いま真剣に考えて実践しないと、将来子供たちに恨まれるでしょう。私は、そんな大人でありたくありません。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.265より

今の住宅事情には、ご用心を!

 世界各国の住宅の寿命は、各国の住宅耐用年数比較表(木俣信行 表2・建築物の耐用に関する諸統計 財団法人・日本建築学会「木材研究・資料 第37号 2001年」)によると、イギリスの141年、アメリカ103年、フランス85年、ドイツ79年、日本30年とありました。
 日本のレベルが低いこともあってか、最近、日本でも「100年住宅」「200年住宅」という言葉をよく耳にするようになりました。しかし、それは実情を伴ったものなのでしょうか。

 建物の寿命だけでなく、そこに住む人の寿命を延ばす素材を使った住宅がほんものの住宅です。生きた木は建物になっても呼吸しています。動物たちが必要とするものを提供して動物たちが吐き出すもの(二酸化炭素)を吸収する。つまり、住まいの中で森林浴をさせてくれます。すでに100年を経過している、日本の本物の100年住宅には、天然乾燥で酵素が残っている、生きた木しか使われていません。

 しかし、最近よく耳にするハウスメーカーがこぞって「100年住宅」「200年住宅」と謳って売り出している建物は、残念ながら生きた木を使っていないものが多いようです。たとえその木が呼吸する木であっても表面に化学製品を張ってしまったら、木は殺されたも同然です。塗料も同じです。せっかく無垢材を使っていても、化学物質の入った塗料で呼吸を止めてしまっては無意味です。

 日本の住宅の90%で使用されているといわれる「ビニールクロス」、正確には、「塩化ビニール」は、アメリカの住宅では全体の10%ほどしか使われていないと聞きます。
 さらに、そうした塩化ビニールを使わずに木だけ使っていても、安心できません。日本のハウスメーカーの大手が「安い」という理由で使っている輸入材(外材)は、化学物質ににまみれているのが現状です。外国の産地で船積みされたほとんどの木材は、防虫、防カビ対策に大量の農薬が使われます。つまり、”毒漬け”されながら海を渡ってくるのです。こうした木に染みこんだ毒は、建物や家具に使われたのちに、少しずつ揮発するなど大気に出てきて、住まいの空間を毒の空間にしていくわけです。

 石油から生まれた化学物質で、身体も脳も冒される。そのうえ、世界一短命な住宅のみならず、そこに住む人も短命になる住まい---。
 日本の住宅は、消費者の知らないところで、ひどい状況にあります。
 とはいえ、知っている人は知っています。しかも、意外な人が...。
 2010年の春、大阪で新築を予定している施主さんが、建築会社の社長と一緒に愛工房にやって来ました。施主さんはその建築会社に、仕上げ材は愛工房で乾燥した板材を使用するように指示していました。

 完成後、再び愛工房に来られた建築会社の社長のお話では、この施主さんは打ち合わせ段階から天然素材にこだわり、化学建材の仕様をいっさい認めなかったそうです。あらゆる方面から集めた情報の資材使用を厳しく要求されるので、一時はお断りしようかと思ったほどだったといいます。

 厳しい要求をしつづけた施主さんのお勤め先を聞いて、私は「やっぱり」と思いました。近く定年を迎えるこの施主さんは、誰もが知っている、建材・建築も関連している有名な化学製品メーカーの重役さんだったのです。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第1章 P.47より

巡り合わせと出会いの運命が始まった

 6月中旬、夕方の夜行列車で大阪に出発です。中学時代の同級生数人が見送りに来てくれました。希望に胸を膨らませて、などといった心境にはまったくなれず、不安でいっぱいでした。関門トンネルに入ってからやっと座席で眠ることができました。
 朝、大阪に着いて市役所の運転手の控え室に行ったものの、紹介状に示されている人は知らないと言われてしまいます。ガードを探しに行くべきかと思っていたら、居合わせた人がひょっとして児童文化会館に居る人じゃないかと教えてくれました。そして私の様子を見て不憫に思ったのか、仕事を済ませたら送ってやるからと、すぐ帰ってきて送ってくれました。関西人の情けを十分に感じました。

 連れて行かれた先の運転手は紹介された方でしたが、それからがたいへん。紹介状を読むなり、すぐ「熊本に帰ってくれ」と言います。帰る汽車賃もない手前、なんとかお願いして、その夜は泊めていただけることになりました。
 翌日、奥さんに付き添われて地域の職業安定所に行きましたが、東大阪のほうで工員の募集はあるものの、丁稚の募集はまったくなし、奥さんは工員を薦めます。給料もいいし、いまどき丁稚になりたいなんておかしいと言われましたが、私は丁稚になるために一大決心でここまで来たのです。職安の担当者にひたすらお願いしました。すると、近くにいたその日赴任したという職員が、前の勤務地で店員の募集があったことを思い出して、問い合わせてくれました。
 なんと丁稚の仕事があったのです。
 工員募集の給料よりはるかに安い額を見て、奥さんはまた工員を薦めますが、私は、寝る場所と食事さえいただければ無給でもよかったのです。
 その足で奥さんも一緒にお店へ行ってくれました。私は丁稚になりたいことを、店のご主人に一生懸命訴えました。

 翌々日、番頭さんが迎えに来てくれました。
 面接を受けた靴下問屋の主な得意先は九州でした。出張中の専務(お婿さん)は、私が面接に行った翌日が偶然にも熊本の得意先でした。その日、母に会って身元と家出ではないことを確認してきたことを後日知りました。
 大阪での偶然と偶然の連鎖は、いま考えても信じられないほどです。何に感謝すべきなのでしょうか。こんな巡り合わせを思い出すたびに胸が、目頭が熱くなります。

「何か困っていることはないか?」

お店は時代劇で見たことのあるような佇まいです。畳の上に高さを違えた傾斜のある板の台を置いて、その上に靴下を並べています。お客さんは土間に立って商品を見て、店員は畳の上に正座で応対します。夜はその商品台を片付けて、奥の方から先輩順に布団を並べて寝ます。

 住み込み初日の朝、先輩たちが起きるのに合わせて起きると、同じ歳の一年先輩から「新入りが皆と一緒に起きてはダメだ。皆が起きる前に荷物を運ぶ自転車を表で掃除するように」と言われました。翌日から皆が起きだす前に起きて自転車掃除をしました。すると今度は、時間が早すぎて皆が眠れないと怒られました。

 奥のほうから先輩順に持ち場が決まって箒で掃いてくるから、土間を掃くのは私の仕事になります。ところが一年先輩の彼は私が動くほうを狙って掃いてくる。数日してたまりかねて抗議をすると、熊本弁で言ったのが悪かったのか、「新入りが先輩に喧嘩を売ってきた」と非難されました。
 こうした事々も、丁稚修行の一つと思うしかありません。イジメに耐えられなくなると、夜中にそっと起きて外に出て、夜空を眺めることにしました。「あの星よりうんと小さな地球。その中の日本。またその中の大阪の一軒の店---。針の点にもならないところで起きていることではないか」「あとで思い出そうとしても憶えていないほどのちっぽけなことではないか」と、夜空の星と話していました。
 せっかく必死の思いでたどり着いた丁稚の道、絶対に辞めてなるものかとの思いでした。

 入社した日、店の布団を借りて寝ました。社長の奥さんからは、実家から布団を送ってもらうように、それまでは貸してあげるから、と言われて困りました。家には私の布団はありません。熊本へ帰る汽車賃にも満たない金額では布団代にもなりませんが、それを承知の上でお金を送って、どんな布団でもよいから送ってほしいと母に手紙を出しました。

  入社して数日後、出張先から専務が帰ってきました。
 専務の手荷物を運ぶようにと近くの駅まで迎えに行かされました。歩きながらの会話で専務が母に会ってきたことを知りました。
 そして、「何か困っていることはないか?」と問われました。
 私は正直に布団のことを話しました。実家に行って、おおよそを察していた専務はすぐに理解して、店の布団をそのまま使えるようにしてくれたのでした。
 周りから見ればたいしたことでなくとも、当人にとってはたいへんなこともあります。
 自分が経営者になってから続けていることがあります。新入社員を迎えて何日か経ったころ、「何か困っていることはないか?」と必ず聞くことにしています。

包装紙の代金は誰が払うのか - 丁稚時代の学び①

 私の商売の原点は、この丁稚時代に培われたと思っています。
 丁稚になって初日の仕事は一生忘れれることのできない一日でした。
 店の奥の方で靴下にシールを貼る作業でした。シール貼りを教えてくださったのが六十代半ばの社長の奥さん。後で思えば、これは、私に仕事を教えるのが目的ではなく、私を観察するのが目的だったようです。
 緊張の上、正座のまま数時間、足がしびれてトイレに行くのに立ち上がるのがたいへんでした。しかし連日続いた正座のおかげで、今でも胡坐でいるより正座のほうが楽に座れます。
 作業はしていても、お店には出させてもらえませんでした。しばらくして社長はその理由を教えてくれました。
 店は、品物を買いに来てくれるお客さん(小売屋さん)に買っていただいた儲けで成り立っている。大阪弁をしゃべることができない、品物の知識もない。そんな者を店に出すことは、お客さんに丁稚の教育までお願いすることになる。店としてそれはできないと言われました。
 私は、大阪弁をマスターすべく、熊本弁を封印。考える言葉も大阪弁にしました。
 品物を知るために寝る枕元に靴下を数点置いて目を瞑って触り、打ち込み具合、重量、使われている糸の番手(太さ)などを指での感触で想像して、翌朝起きて確かめました。
 店は地方の問屋への発送も多く、荷造りもかなりありました。
 私が荷造りをさせてもらえるようになって間もなくのことです。
 その日は荷造りの数が多い日でした。一人で頑張って終わりに近づいたときでした。私が荷造りをしている土間に社長が降りてきて、切り落とした縄の端を集めて私の目の前に持ってきました。そして、こう言いました。
 「これを全部合わせると、もうひと巻き、ふた巻きはできる」
 そう言われても私の目は、「まったく切り落としなしでやるのは無理です」と語っていたのでしょう。社長が、目の前で残った荷物に網をかけて荷造りを始めました。無駄がまったく出ません。
 私は、次の日から切り落としの出ない荷造りを心がけました。しばらくして、縄の無駄を出さない荷造りを終えて満足していると、社長に二階の説教部屋(私が勝手につけた)へ呼ばれました。
 部屋に入るや、「君はこの店を潰しに来たのか!」と怒られました。理由がわからずビックリしている私に、
「今日、入れた空箱の中に、まだ箱として使えるものを三箱入れているのを見た。箱として活かせる物を”死刑”にする権利が君にはあるのか。”蟻の一穴から堤が崩れること”を知らないのか!君はその蟻の一穴をつくっている。みんながそうすれば、一年間、一〇年間を考えるとたいへんなことになる」
 荷造りの際、ダンボールの空いたところを埋めるために入れた空箱について、社長は言っているのでした。怒られながらも、私の心の中ではうれしい気持ちでいっぱいになりました。「こういうことを学ぶために来たのだ」と。

 さらにこんなこともありました。
 店に買いに来た小売屋さんの商品を包装する紙は、ほとんどが新聞紙でした。商品をくくる紙ヒモは、工場から送られてきた荷のヒモを解いて、繋いで丸くしたものを転ばしながら使います。そのヒモが少なくなってくると、新しい紙ヒモなのに繋いで丸くして使っていました。
 普通に考えると、お客さんに商品を渡すときは、キレイな包装紙を使うのにと思いました。しかし、商売に厳しい大阪の商人は「靴下を買いに来るのであって、包装紙を買いには来ない。包装紙に金を掛けている分高い買い物をした」と思われる、と教えられました。
 私が二九歳を前にして電気工事業で独立してからの仕事においても、六〇歳を過ぎてから開発した木材の乾燥装置「愛工房」の設置理念についても、この教えがあったおかげです。
 広告や営業の上手さよりも中身の大切さ。相手が何を求めているかを考えて対処すること。これらは私にとっては当たり前のことなのです。
  広告の費用は、お客さんであるあなたが支払っていることに気づいてください。
 仕事を取ることより大切なことは、やった仕事の中身であり、仕事を終えた後なのです。電気工事も乾燥装置も、こちらが仕事を終えた日は、相手にとっては始まりだからです。

お客にウソをついてはいけない - 丁稚時代の学び②

 丁稚になって最大の収穫は「商売は下手になれ」でした。
 入社から五カ月ほどして経過して、店先でお客さんとの応対が許されるようになると、また社長に二階の説教部屋に呼ばれました。そして、「伊藤、商売は上手くなろうとするな。相手に上手いと思われたら商売人として失格だ。下手だと思われたら喜べ」と言われました。
 小学五年生の頃、早朝から天秤棒を担いでおばさん相手にアサリ貝を売り歩いていたことや、ふかしたサツマイモを魚市場で働く人たちに売っていたせいか、ものを買ってもらうコツが身についていたのを見抜いた社長からの忠告だったと思います。
 そして、「お客に嘘をついたらダメ。知らないことは知らないと言え。正直が一番だ」と教えられました。社長はそのころ七〇歳ぐらいで「正直(まさなお)」というお名前でした。

 翌年の4月になると高卒新入社員が三人、入社してきました。年齢は私より一歳上です。
 新入社員に対する社長の対応は、私のときとはまったく違っていました。この年から丁稚を育てるお店ではなくなり、普通の会社に変わっていくように感じました。
 社長にとって私が最後の丁稚だったのか。「間に合ってよかった」「儲かった」、そのとき思った正直な気持ちです。

丁稚時代に教わった大切なことは本当の商売でした。
 「商売」は「商」と「売」で出来ているということです。つまり、「商い」と「売る」の二つでセットになっています。ただし、あくまでも「商売」であって、「売商」ではありません。
 大事なのは「商」なのです。
 その証拠に商売をする人を商人と呼んでも売人とは呼びません。
 商人と書いて「あきんど」とも読みます。「商」に「い」を付けて、「あきない」と読みます。本当の商人は「あきない」をします、「飽きない」で続けます、「飽きない」ものを提供します。

 私は「愛工房」導入の要請があった場合、導入したいという相手に「利」があるのかどうかをよく話し合って、互いに納得して設置することにしています。何度も繰り返しますが、「愛工房」は設置することが目的ではなく、設置後に目的が始まります。
 本当に「良いもの」だったら、売るほうも、買うほうも「飽きない」で関係が続きます。
  本当に「良いもの」は大きな経費を掛けて「売り込む」必要はないのです。購入する人たちも、本当に「良いもの」は、いろんな手段で探せる時代になってきました。
 そのときの、キーワードは”生命”であって欲しいと願っています。
 人の生命。地球の生命。木の生命。

「買ってやる」ではなく、「売らせてもらう」 - 丁稚時代の学び③

 品物を知りたくて努力したおかげで商品の知識は身につきました。
 それが良かったのか悪かったのか、後から入社してきた人たちは外回りの営業や配達に行く中で、私だけは内勤が続きました。そして、いつの間にか仕入れの担当になっていました。
 そのころ、社長に教わったことは、「物を作るところがあるから物を売れる」、「仕入れてやる」というものではなく「作った靴下を売らせてもらう気持ちになるように」、と言われました。
 休日を利用して何カ所かの工場に行きました。夏の暑い盛りに工場に行くと、下着姿に近い格好で、汗まみれになって働いている若い女子工員たちを見て感動しました。
 そのころの工場にはクーラーどころか扇風機さえ見た記憶がありません。
  靴下を作る人たちがいるから、売ることができる。この単純で当たり前のこと、それを確認しました。

 その後、私が長年世話になる電気工事の世界でも、工事に必要な材料を売ってもらえるから電気工事ができる。その気持ちで電材問屋の人たちと接すると、気持ちよく仕事が進みました。

 また、現在、尾鷲「香素杉」を当社はかなりの量を売らせてもらっていますが、その際も、丁稚時代の体験が教訓として生きていると思います。良い商品をお客さんに届けるため、製材所の生産状況を聞き、納入先と調整して生産者が自信を持って出荷できる製品を送ってもらうようにしています。
 私は 畦地製材所の若社長の情熱と、木を見る目利きの確かさに信頼をおいていますので、注文する際はいつも、「あなたのところは自信を持って良い製品を作ってください。私たちはそれを売らせてもらいますから」とお伝えします。これは、尾鷲「香素杉」を購入するお客さんに対しての誓いでもあるのです。

 大阪での丁稚修行はあっという間の三年と二カ月でした。
 社長、専務にはありがたい気持ちでいっぱいでしたが、退社することを決意しました。
 勝手な思いですが、将来ご恩を返せる立場になって、お二人に返せない分、次の世代の人たちに返すことを心に誓いました。
 この気持ちは今までも、これからもずっと変わることはありません。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.218より

だれもやっていないことだから挑戦する-サーキットのナイター照明

 あらゆる電気工事をやってきましたが、一つだけどうしても忘れられない工事があります。サーキットのナイター照明工事です。
 1980年代当時は、空前のサーキットブーム。昼間だけの利用では追いつかないと、ナイター利用の計画が持ち上がり、サーキットの利用者側の代表からナイター設備工事の話が来たのです。

 たしかに電気工事をしていましたが、サーキットのナイター設備はまったく未知の世界。一応断ったのですが、「現場だけでも見に行こう」と誘いに来ました。
 再び私は「やったことがないので...」と言ったところ、
 「当たり前だ。サーキットのナイター設備はどこにもない。やった人がいるわけない」
 そう言われた私は、誰もやっていない、新しいことをやらせてくれる機会をいただけるなんてむしろありがたいことだと思い、現場に行くことにしました。
 生まれて初めて見たサーキットは、とにかく広くて、うるさいものでした。
 実はこの仕事、以前からサーキットに関わっている業者とのコンペだったことを知ったのは、仕事が決まってからのことでした。

 照明器具メーカーの協力を得て、私は現地調査を行ないました。前例がないわけですから、参考文献も何もない、まったく白紙の状態からの挑戦です。私はとにかく、走る人の立場、目線になって考えることを心掛けました。

私が設計する上で念頭においたのは、次の三点です。
①光源は、照射距離の範囲もあるが、高いほど良い(提案した高さは23m)。
②コースの進行方向は一定なので、背面の上部から照らすべき。
③霧や霧雨のときを考えると、透過率の良い高圧ナトリウムランプがベスト。

 なにもかもが初めてです。配線経路や施工方法を考えるのもたいへんでした。
 コンペの結果、23mの高さからの照射というアイディアと、予算の範囲内で実現できるという点が決め手となり、仕事が決まりました。ちなみにコンペの相手は背の高い街路灯で提案していたそうです。

 実際の施工では、走路の照度を均一にするのに苦労しました。しかも当時まだ四四歳と若かったこともあり、夜中までコースを歩き回って、すべての場所を照度測定して仕上げました。現在、木材乾燥をしているときに、重量、含水率を細かく測定してすべて記録を取るのですが、このときの経験と比較すれば、実に楽なものです。

 設置完了してすぐに行われた8月の「九時間耐久ナイターレース」では、実際に走ったドライバーたちの「満足した」というコメントがオートスポーツ専門誌に掲載されました。それを目にしたときは、苦労した甲斐があったと喜びました。そしてなによりも、初めてのナイター耐久レースで事故がなかったことが一番うれしかったです。この施設は、照明学会より「1985年照明普及賞」として表彰されました。

 誰もやったことがないから挑戦する。
 相手の立場になって考える。
 使う側の目線に立つことが大切だと知らされた。
 「愛工房」の開発においても、私は結局、同じ考え方で臨んでいました。ガンコ者の性と言われればそれまでですが、私自身は「愛工房」という湖に流れ込む一本一本の川の存在を発見した気持ちでいます。

『樹と人に無駄な年輪はなかった
第6章 P.245より

日本の隠れた財産・杉の本来のチカラ-7月16日②

 阿蘇大橋で重機が働いている対岸の周辺を見ていると、上のほうは霧がかかっていて崩れたところは赤土の斜面、その左右には緑の山があります。あの赤い土のところも3カ月前までは緑の山だったのです。崩れないように必死に頑張っている左右の木々たちの姿が痛々しく感じられました。
 木々たちもそれぞれに特性を活かし、命をつないでいるのです。
 たとえば落葉樹たちは、虫たちに寝床やえさを与え、短命な虫たちは死後数年には土の中でキトサンとなり土の養分となり、その養分を樹木たちが吸い上げます。また、その養分は水と一緒に下流に運ばれ田畑や海の生き物まで恩恵を受けます。山の樹木は養分を自ら確保します。木は自分の周りに虫を育て養分を生成しているのです。薬(毒)で虫を殺す目的がわかりません。

 一方、落葉しない針葉樹の杉にはその働きは難しく、自ら高所に住まず、主に養分の多い低地で生息していました。ある文献に、本物の杉の素晴らしさについて、こう説明していました。
 「深根性であり、根を深くまで伸ばす。根系直径10mmの引き抜き抵抗力は、スギ、ヒノキと広葉樹(ナラ類)100kg程度、アカマツはその半分、カラマツは4割程度であり、スギは土砂災害に強い森林づくりに好ましい」。文献では、こう書いています。
 やはり、本物の杉は日本の宝であったことを再認識しました。各地のご神木の多くが杉であることも納得できます。

 しかし、人が使うこと第一の経済優先で、植えるべきでない場所にも杉を植えました。しかも、生き物の生命の源である「実」から育った杉ではなく、枝からつくりだす「挿し木」クローンの苗を植えています。
 その苗づくりを簡単に説明すると、杉の枝を切り落として20cmくらいにした枝を束にして、水路に浸して幹に水分を吸わせた後、畑に植えます。畑に植えた枝から根が出てきた後に山へ植えますが、根が土中へ伸びている「もの」は植え前に「根切り」と称して、切るそうです。植えるのに深く掘るのが大変だからでしょう。
 このような効率優先の植林は50年前も現在も変わっていないそうです。ただ、「根切り」をしないで植えた地方もあることを聞きました。

 一方、実から育つ杉たちは地中へ向かう根が出てから地上に芽を出すのに、挿し木の杉の根は土中より横に根を張るそうです。だから、風に、大雨に耐えられません。このことは以前からわかっていて危惧され、警告もされています。
 経済優先で植林された杉は、ほぼすべてが「挿し木」クローンの苗です。そんな苗を急斜面に植えてきたことで起こる災害を、天災と言って済ますわけにはいかないのではないでしょうか。

今から50年前の杉、これから50年後の杉

 杉は樹齢30年ごろから花粉を出し始めるそうです。拡大造林で50年、60年前、大量に植えた杉の「挿し木」クローンの苗について、どこでつくった苗が全国のどこに植えられたのか、記録があると思いますが非常に興味が湧きます。なぜなら、杉を植林した地域でも花粉症の人がほとんどいないという地域もあるからです。地元で育った杉からつくった「挿し木」の植林をしていたという地域では、花粉症の人をほとんど見かけないと聞きましたが、全国レベルでの調査をなぜしないのでしょうか。
 拡大造林のころ、一本植えて幾らの収入なので、植える本数が多いほどお金になりました。だから当然、密植になります。植えたあとの手入れや間伐が行われていたころはよかったでしょうが、密植されたままだと、地面も空間も限られた場所で、隣同士、四方八方で、杉としても生き残りの戦いになります。すべての生き物は自分の子孫を残すために戦います。杉においては花粉です。
 ところが、花粉症の人がいる地域でも、昔は今より花粉は出ていたが花粉症になる人はいなかったと聞きました。

 2016年11月、杉の花粉症について、テレビを観ていて非常に明快な答えを知りました。
 そこでは、「スギ薬局」の女性の役員、杉浦さんがインタビューに答えていました。質問者がこんなにみんながスギ花粉で困っているのに、薬局の名前を何で「スギ薬局」としたのかとの質問に、
 「40年前に創業した際に付けた名前です。そのころ、花粉症はありませんでした」
 と、杉浦さんの明快な答えでした。そのうえ、私は「スギ薬局」が、関東、中部、関西に1000店舗もあることにも驚きました。
 昨今、花粉をほとんど出さない杉をつくる苗に成功して植林を始めているそうですが、その杉を使うのはこれから50年後、今日生まれる子どもたちです。どんな弊害をもたらすのかわかりません。50年後を考えるには、50年前を検証することが大事だと思います。

アパートの崩壊の悲惨さに衝撃-7月16日③

 阿蘇大橋からすぐ近くに、学生さんたちが棲んでいた数棟のアパートがありました。
 多くの被害者、犠牲者が出た建物を1棟1棟見て回りました。
 完全に壊れ、横倒しになっている建物、2階建てだった建物の1階部分の姿が見えなくなっている建物、中には外見から見る限りでは、しっかり残っている2階建ての建物も1棟ありました。

 その中で特に気になった建物は、1階が車庫になっている3階建ての建物でした。下敷きになっている車に気を取られていて、ふと目を移すと建物の奥のほうに柱らしいものが見えました。
 地面から60cmほどがコンクリート、その上は赤い鉄骨、全長2mあまりの高さで少し斜めに立っていて上には何も載っていない。前にはつながっていたと思える部品も付いていない。その柱の手間2mほど、横にも2mほど離れた場所に2階建てになった建物がある。
 なんとも不思議な光景でした。手前に数台の押し潰された車を見なかったら、2階建ての建物と見間違うところです。
 もっと驚いたのは、先ほどの柱から手前に数本の柱が横たわって上の部分は建物の下に入り、柱の根本のほうはアスファルト面から突き出たそれほど太くない数本の鉄筋が折れ曲がっており、中にはちぎれている鉄筋もありました。柱の基礎はどうなっているのか、アスファルト面の下に基礎があればどうつながっていたのか興味が湧きました。専門家でないのでわかりませんが、ほかのアパートも同じような施工だったのでしょうか。

 ここに来るまでだれにも会わなかったのに、珍しくカメラをアパートに向けている人に出会いました。腕章には西日本新聞社とあります。私は、「隣でまったく壊れとらん農家さんの建物がありますよ、撮らんですか」と言ったのですが関心を示す素振りを見せません。そこで、「益城町で震度7を2回、6強を2回も遭ったところでまったく無傷の保育園があります。大地震でも大丈夫だったところの取材をしたらどうですか」と言って名刺を出しました。受け取ってはくれましたが、ひと言も発せず、まったく反応がありません。「あじさい保育園」の前田理事長の言葉が思い出されました。

 

奥山に神様がいられるようにしないと...

 一昨日の7月14日、藤本氏の案内で西原村を回ったときのことが蘇ってきました。
 県道から細い道へ入った道路際に、屋根付きのしゃれた小さな看板が目に入りました。旧家を改修したお蕎麦屋さんで、営業を始めてほんの数カ月で震災に遭ったことを藤本氏が教えてくれました。

そこを先に進むと2階建てのしっかりした建物、さらにその先には犠牲者が出たという農家の建物、同じ敷地の向かい側には車が屋根を支えている納屋が見えました。もっと先に進むと少し上り坂になっている道路は、前日の雨で一部が小さな川になっていました。

その先の民家の庭から裏山を眺めると、上のほうはすべてがうっそうとした緑に阻まれて先が見えません。
 木が、山が、しっかりガードしているように見えたので、大きな声でここは大丈夫でしょうと言うと、この地域は集団移転の計画があると意外な言葉が藤本氏から返ってきました。どうして、と聞くと、ここからは見えないが裏山の先のほうにある植林した杉山が崩れる危険性があるから、とのことでした。
 ここに住んでいた昔の人たちは裏山を大切にしていたのではないかと想像しました。その奥のほうの山で崩壊の危険性がなければ、お蕎麦屋さんの再開や途中のしっかりした建物での居住、農家の人たちの住み慣れた先祖の地で、前と同じ生活に戻ることができる可能性もあったのではと思いました。

 今回の地震が発生したことで、熊本の各地で山の崩壊が発生しました。今は表に出ていなくても、崩壊する可能性のある危険な箇所は少なくないと思います。
 ここで起きていることが日本各地の災害の始まりの序曲にならないことを祈るばかりです。
 ますます大型になる台風や大雨、いつ起こるかわからない地震。奥山まで、傾斜地の危険な場所に地すべりの原因となる「挿し木」クローンの苗の杉を植えた結果、日本列島全体が危険地帯になることはわかっていることではないでしょうか。
 数年前、南九州のあるところで杉の美林を見ました。見事な杉の畑でした。山の上のほうを眺めると見事な広葉樹、この地方では昔から守ってきたことだと教えてくれました。
 日本人は体験を重ねて杉とともに生きてきました。酒樽、味噌樽、醤油樽のすべてが杉を使っていることでもわかります。神社などの宝物殿で宝物を納めている部屋は杉の部屋です。
 杉は人の体温を奪いません。体温を返してくれる最高の建材が「杉の床板」です。
 杉の学名が「クリプトメリアジャポニカ(日本の隠れた財産)」であることでもうなずけます。
 日本国は宝の山の中にあり、日本人は生命の宝の山の中で生きています。

 経済優先のものづくりが経済をダメにする皮肉な結果になろうとしているように思えます。
 本来、木は山を守っています。奥山には、根が地中に向かう木、土の養分をつくる木、水を貯えて出す木、空気をつくる木、山を守る木がいるから、山に神様が宿っているのです。

『木造都市の夜明け』
第3部 P.175より