(3月号)寄稿 私が働く目的は傍を楽にするためです

80歳で連載を始めさせてもらうことになった私の人生の転換点

伊藤好則 アイ・ケイ・ケイ株式会社 代表取締役

44歳で迎えた「はたらく」ことの転換点
 24歳を目前にした1965年1月、現在居住している東京都板橋区の地に辿り着きました。
 働き始めたのは15歳、大阪で3年余りの丁稚修業、航空自衛隊で3年間の勤務を含めて、11度目の職場が電気工事店でした。就職して丸5年後、電気工事業で独立しました。
 次の文は、2012年に発行した拙著『樹と人に無駄な年輪はなかった』(三五館)で記した一文です。
 「19歳で上京したものの身体を壊して、航空自衛隊に入隊。この3年間で身体を鍛えて、24歳前に再度上京。このとき考えたのは、あと1年間、見習いとして世の中のお世話になる。つまり、生まれてから25年間はまわりの人々に助けられて生きる期間。特に自衛隊にいた3年間、勉強や生活のために使われた費用はすべてが税金から。これからの働きで返さなければと思いました。
 そのお返しをする期間を25年間とすると、そこで50歳になります。つまり、ここでプラス、マイナスがゼロになるのです。60歳までの10年間は、『働きたくても働けない人のために働く』期間と考えました。60歳が近づいてきた頃、生きている間に自分がやるべきこと、自分にしかできないことは何だろう? それを探しました。(後記するAさんとの出会いはこの頃でした。)

 60歳を過ぎて電気工事を卒業した後に始めたのが、木材乾燥装置の開発でした。60歳までに出会った人、物、ものごとはすべて、私にこの乾燥装置をつくらせるためだったのではないかと思っています。出会ったすべての人、すべてのものごとに感謝したい気持ちでいっぱいです。
 60代で働くことは、それまでの知識、知恵、経験という財産を活かせること。
 60代で働くことは、いずれ自分が世の中の負担になる時期に備えた貯蓄だ。
 70代になって働けることは、働くことに喜びを感じて働くことにする。
 80代になっても働ければ、働けることの幸せに感謝して楽しく働きたい。
 人一倍子ども好きの私が44歳の時、子供を授からないことを宣告され、
その後の人生を受け入れました。その時が私の「はたらく」人生の折り返し点でした。
 88歳まで「はたらく」ことができれば、子供の分まで「はたらいた」ことになる。90歳で第二の卒業ができれば本望です。この世に生まれてきて、生かされてよかったと言える一人になれば本望です」
 以上が『樹と人に無駄な年輪はなかった』の中で「60代を大切に生きる法」の一節です。

Aさんとの壮絶な体験で気付かされた物事の本質
 世論時報の先月号(2月号)に掲載された「化学物質過敏症の私を救ってくれた杉」を寄稿してくださった大阪のお嬢さん、このご一家と出会ったことで私は救われたのです。
 寄稿文を読んでいるうちに、ご一家と出会う数年前の出来事が甦ってきました。それは、東京で開催されたシックハウス対策の勉強会で隣の席に居た50歳代の女性、Aさんとの出会いです。
 一通りの講義が終わると、Aさんから「家の中に居ると体調が悪く、最近新しい畳に入れ替えてから特におかしくなった、何とならないか」との相談です。
 私はこの少し前に、キトサン製品のホルムアルデヒド吸着除去剤を塗布する講習を受けていたので、その話をすると「是非それを使って助けてほしい」との懇願でしたので、数日後、伺うことにしました。
 当日は整髪料なし、着るものは極力化学繊維のものを避け、合成洗剤で洗ったものは着用せず、身の回りから化学物質の製品を排除して伺いました。その後、Aさん宅を伺う際はいつも同様の身だしなみにする必要があったので、準備が大変でした。
 作業の報酬は一切いただかず、費用は塗布後に効果があった場合、資材費
のみをいただくことにしました。
 作業の内容は、まず、室内の各所の空気を測定器「ホルムアルデメータ400」で測定した後に、ホルムアルデヒド吸着除去剤を塗布、1階の畳をめくって畳の表裏面と床面に塗布、それが乾いたのを見計らって戻し、壁面へも塗布。2階は壁面と天井面を塗布。全ての塗布が完了した後、1階の和室に扇風機を置いて風を送り空気を感じていただくと「気持ちいい」とAさんは大変満足のご様子でした。
 翌日、塗布後24時間経過したのを見計らい、各所を測定すると先日の塗布後の数値と殆ど変わりませんでした。クレームもないので一安心して帰着。
 すると、翌朝早くの電話で「塗布したものを全てはがせ」と強い口調での申し出がありました。伺って数値に異常がないことを示しても「数値は関係ない。私が辛いからはがせ」とのこと。持参した数本のタオルで壁、畳の表裏等、塗布した全ての場所を何度もふき取ってその日は帰着。
 翌日も、早朝に電話があり前日と同じ作業を繰り返しました。見えない敵と戦う辛さを味わいました。その日は、Aさんが用意していた粉を畳の下に撒き、渡されたフイルムで押さえ、一週間後にその粉を取り除く作業を指示されました。そして、次の言葉には驚かされました。「私が辛い目にあっている現状を『化学物質過敏症被害者の会』の仲間へ連絡するとお宅は仕事ができなくなるかも」と。
 また、かなり高額の空気清浄機のカタログを見せられて、購入することを要求され、それも飲むしかありませんでした。この時、私はとことん付き合おうと腹をくくりました。
 次に伺った一週間後の手帳には、「清浄機1台着く予定。1階、畳上げ、前回の粉を取り清掃、また粉を撒き、フイルム、壁3回清掃。2階、壁天井清掃午前11時20分~午後2時45分」とあります。腹をくくって待っていたのに、翌日以降、電話は掛かってきませんでした。
 その後もホルムアルデヒド対策の講習会には参加しましたが、Aさんとの一件は参加されていた皆さんには話せませんでした。体験したことがあまりにも重過ぎました。
 長年やってきた電気工事業、その卒業後の仕事としてホルムアルデヒド対策の仕事を一時は考えましたが取り止めました。考えれば気づくことです。測定器の示す数値が良くてもそこに住む人の体調が良くならなければ改善されたことにはなりません。
 こんな当たり前のことが解決されないのでは、人の役に立つ仕事にはならない。化学物質過敏症の原因となっている化学建材、それに何かを塗布する対処法では無理であること。あくまでも素材が大切であり、「素材の命」が大切であることを考えさせられました。このことがあって程なくして、木材乾燥装置「愛工房」を開発しました。

大阪のご家族一家が私を救ってくれました
 私はAさんとの一件があってからは、できれば「化学物質過敏症」の人たちとは関わりたくないと思うようになりました。また、多少人間不信にもなっていました。
 この状態を払拭してくれたのが本誌の先月号に寄稿された大阪の化学物質過敏症のご一家です。電話をいただいた当初はお断りする気持ちで聞いていましたが、ご主人の声、話に惹かれるものがあり、できるだけの協力をさせていただくことを約束しました。
 電話をいただいてからひと月ほどして、関西で講演会があり、講師で環境ジャーナリストの船瀬俊介氏と一緒に関西空港に近いお住まいへ伺い、当時一年生だった可愛い天使とも初めて会いました。
 その後もよく電話をいただき、ご自宅へも伺い、親戚同様のお付き合いとなりました。そのお蔭で、化学物質過敏症の方と接することへの不安が解消し、自信にもなりました。
 先月号の寄稿文の文中に、愛工房で乾燥させた木材で作ったベッドのことが書かれています。先月号の23頁で転載していただいた拙書の中でも詳しく紹介していますが、6年ほど前、黒杉ベッドを製作している会社の社長から、「担当者に不幸あったので、今後はベッドの製作ができない」との電話があり仰天しました。
 ベッドを使用された方からの反応も良く、注文も受けていた矢先の出来事でした。そこで、椅子やテーブルの製作を依頼している木工所の社長に来ていただき、一緒に考え、特許に抵触しない、より丈夫で安全な造りとなった現在の「黒杉ベッド」が誕生したのです。
 寝室内の空気が変わります。身体が緩み素敵な睡眠を、自信を持ってお勧めしています。

 私は、これまでに、多くの人・もの・ものごとに出会わせていただきました。出会っても、きづくか、きづかないかで人生が変わることを知りました。
 子どもを授からなかった私に60歳を過ぎて「愛工房」という娘を授かり、
70歳代に「杉ビル」という息子を授かりました。80歳になった今、月刊『世
論時報』で連載の場を授かりました。「それは人を幸せにしますか」これが私の「はたらく」(傍楽)目的です。
 世論時報4月号から「『経済』『効率』優先から『命』優先の選択へ」とのテーマで、新連載が始まります。「愛工房」と「愛工房」で乾燥した「杉」、その製品に出会った方々の体験を中心にお届け致します。この場が、読まれた方の「きづき」の広場になってくれるとありがたいのです。

‥‥‥期待しないで、‥‥‥期待してください。