化学物質住宅に、悲しみと怒りを込めて

農(毒)薬と住まいは無関係ではありません。むしろ食べ物よりも人の命、神経、精神を犯されていることが多いと思います。食べ物は選べますが、空気は選べません。
ネオニコチノイド系の農(毒)薬は、ヒトの脳への影響、特に、胎児、小児など脳発達への影響が懸念されています。既に、ヨーロッパでは、数年前から使用が禁止されています。
食べ物は、胃や腸を経て全体にまわります。空気は即、体全体にまわります。
一日に摂取する空気の重量は、一日に食べる食物の5倍あるいは10倍とも言われています。
一軒の住宅に使われている、新建材や合板の中のネオニコチノイド系の農(毒)薬、かなりの量が使われています。
安全基準は生産工場から出る時のもの、実際に住まいに使われてからの危険性については、どこも責任も、感知もしません。自分の命、家族の命、自分で守るしかありません。
現代社会を生きるには「食べ物」は、大切。しかし、「住まい」の空気は、もっと大切。

 

―1.母子無理心中
2016年7月23日の夕刊記事を見て愕然としました。間違いであって欲しい、何度も確かめましたが、住所、氏名、年齢、私の知っている親子でした。
ちょうど1年前の7月、初めて来所した母親の話では、子どもが産まれるので10年前に新居を建てた。すると出産以降、母子とも年々体調不良となり、住まいが原因であることに気づいて10歳になる男の子を連れて相談に来られました。リフォームするには費用が大変。部分的な手入れでは解決しない、そこで、私は、土地が少しでも空いていれば、2人の避難小屋をつくることを提案しました。しかし、その後、その話しは進展しませんでした。当初は母子で「杉浴」に参加していたのが、途中から母親だけになりそのうちに来なくなりました。建築会社は、誰もが知っている大手のハウスメーカーでした。

新聞では「西東京の住宅で母子無理心中か」の見出しで
“22日午後10時40分ごろ、東京都西東京市の住宅で、住人の主婦(44)と長男の小学6年生(11)が死亡しているのを、仕事から帰宅した会社員の夫が見つけて119番した。警視庁田無署は現場の状況から母親が無理心中を図ったものとみている。署によると、母親は2階の部屋のクローゼットの中でロープで首をつっていた。長男は同じ部屋の布団の上にあおむけで倒れており、首にひもで絞められたような痕があった”と。

身体も、精神も追い詰められたのか、何とも言いようのないできごとでした。
シックハウス、化学物質過敏症では、家にいる時間が長い奥さん、免疫力の低い子どもたちが受ける被害が多く、旦那さんに理解されないことが多いので、相談には夫婦で来られることを勧めます。夫婦で来られた場合はほとんどが良い結果になっています。
本来、人をはじめとして生きものは、危険なものに対して、「危ない」と察知し反応するのが当たり前です。命に危険なものを、「危ない」と知らせる身体の人に「過敏症」という病名をつけていますが、こちらの方が正常で、危険なものに対して無反応な人の方が「化学物質鈍感症」という病気だと教えます。過敏症と言われている奥さまが正常なのですと告げると、旦那さんや周りの人たちに理解されず精神的にも参っていたのでしょう。泣き崩れる奥さまもいらっしゃいます。
旦那さんにわかって貰えたことで精神的にも救われ、呼吸する建材、家具などを取り入れた日から、身体が良くなっていく、奥さまや子どもたち。ご主人も家庭もみんなが救われます。

―2.恩師の死
西山中学校を卒業して、半年後、母は小学生の妹と就学前の弟を連れて10年余りの住み慣れた住まいを出ることになりました。父、兄、直ぐ下の妹は既に家を出ていたので、私は、自分の住む場所を求めて寮のある就職先を新聞の求人欄から探して応募することに、就職難の時代です。見習い工員1人の募集です。必死でした。考えた末、又吉熊雄先生を訪ねて推薦状をお願いしました。卒業時は教頭をされていた先生は、この年からは同校の校長になられていました。
もう1人、一新小学校で3年から6年までの担任、上里良蔵先生にもお願いしました。
お2人の推薦状のお蔭で9人の応募の中で1人、採用となりました。お2人とも沖縄のご出身でした。その後、最後までお付き合いをさせていただきました。
そうまでして就職した職場を翌年の6月には、丁稚になりたい一心で大阪へ向かいました。お2人には働き先が決まって、お詫びと報告をしました。
8月の暑い日、店先に、又吉先生が見えました。覚悟の上での丁稚修行でしたが、仕事へのとまどい、それより、職場の人間関係、生活の違い、驚きと辛さを感じていた頃でした。先生と何の話しをしたのか憶えていません。が、とにかく嬉しかったこと、心強い気持ちになったこと、有り難かったこと、思い出すと今でも涙が止まりません。
私が独立し、結婚したころには、先生は埼玉県の所沢に住まわれていたので、夫婦でお宅へよく伺いました。妻は奥さまから電話があると、所沢のお母さんから電話だよと言っていました。あるとき、大阪の丁稚先へ来てくださったときのことを尋ねました。
先生は、「校長になって初めて送り出した子どもたちだ。高校へ進学した子どもたちは高校の先生方が心配してくれるが、中学校を出て世の中に出た子どもたちは、私たちが、気に掛けてあげるのが当たり前でしょう。無理をしてでも多数の子どもたちと会いたかった」と、私は後輩たちの恩恵にあずかったことを知りました。先生は、夏休みの期間中、時間とお金の節約に、通りがかりのトラックに乗せてもらったことの話もされました。先生の生徒への想い、懐の深さに改めて感銘を受けました。

2016年8月15日、又吉先生宅へ夫婦で伺いました。先生ご夫妻は既にお亡くなりになっていますが、私より2歳若いご長男とはその後もお付き合いが続いています。20年前に亡くなられた先生の思い出話をしている中で、大変な体験談を聞きました。
独身の彼は完成した住まいに平成2年、両親と一緒に住むことになるが、その前まで数年間住んでいたのが新築のマンション。そこに住み始めた頃から身体中に痒みが出るようになったが、新築の住まいに住み始めると痒みは一層激しくなり、手首から背中まで痒さと戦う苦しみの毎日で血だらけの体に、夏でも半袖シャツを着ることができなかった。
仕事で海外へ出張することも多く、先進国のホテルでは熱いお湯が出るので一番熱くしたシャワーを浴び、次に冷たい水のシャワーを浴びることができて助かったが、ぬるま湯しか出ない国では地獄だった。と、壮絶な話し、聞いているこちらが地獄でした。
ただ、当人の皮膚は、体は、どちらも地獄だったのでは。

今は、新築から20年以上が経過して、建物に使われていた毒は薄らいできたのでしょうが、半袖シャツから見える彼の腕には、血だらけの苦しみと戦った痕跡が残っていました。
彼は、自分がそんな目に遭うのは、自分の皮膚が弱いからだと受け止めていたが、私が木に関わるようになった10年ほど前から、話しの中に出てくる、部屋の空気の大切さを聞くにつれ、建物が原因だったのでは、と、気づいたそうです。
彼から、「新築の家に住み始めたころから、それまで何ともなかった親父が身体か痒いと言い出した」。と、建築会社は、母子無理心中と同じ大手のハウスメーカーでした。
先生は、平成6年の始めに入院され、3月の自宅外泊の日に伺うと、ご自分の病名を「気質化肺炎」と書いて渡されました。3年後の西山中学校創立50周年の話しをすると、一緒に行こうと言われて、嬉しい反面妙に気になりました。体調を崩されて、この、2、3年前から遠くへ出ることがなかったからです。平成1年から続いていた、関東地区の同窓会への参加へも無理なのに、熊本へ行くことなど到底考えられないことでしたから。

平成1年の秋、新宿で関東地区の同窓会を開催、参加者20名ほど、又吉先生ご夫妻をお迎えして、先生の傘寿のお祝いとご夫妻の金婚式のお祝いをしました。平成2年の秋にも同じ場所で、その年は先生のご自宅の完成を皆で祝いました。(後で思えば皮肉なお祝いになってしまいました。)
新築の住まいに引っ越された翌年の平成3年は先生の体調が思わしくなく欠席の予定でしたが、開催日近くになって、出席の連絡をいただき、自宅までお迎えに行きました。先生の参加はこの年まででした。
平成6年3月にお会いした翌日、先生は病院に戻られ、熊本どころか、自宅へも帰ることなく5月29日帰らぬ人となりました。もっと、ずっと、見て欲しかった、無念でした。
これまで、先生に見守って頂いている、その思いで、間違わずに進めました。
間違った新築のおかげで、あと10年、それ以上も語り合えたのにと思うと、悔しさと、怒りがこみ上げてきます。
あの頑健なお身体の先生が新築病、空気病が原で、大切な恩師の命を奪われました。

 私が60歳を過ぎて、現在の仕事に導かれたのは、そうだったのかとも思いました。
 私たち3人は所沢霊園に眠る、先生ご夫婦と、先生のご両親、先生の大切な2人の伯母上に会いに行きました。

 先生とお別れした翌月の6月、前年に続き母校での講演でした。この月は、高校、中学校など6か所での講演でした。地元の熊本日日新聞は母校での講演の様子などを、「嫌煙社長奮戦記」と題して、4日間連載で掲載しました。
 記事の中の一節では、“同中では中学時代の思い出を語りながら、先日死去した恩師の又吉熊雄校長に話が及んだ時、伊藤社長が一瞬絶句したのも若い後輩たちとの距離を縮めたようだった。図書室には伊藤社長が、講演した謝礼の寄付で学校が購入した、たばこ問題関連の本を集めた伊藤文庫がある”と。
 平成9年に行われた創立50周年には、生前、先生が大切にされていた腕時計、それに愛用されていたネクタイと一緒に出席しました。
 家は、住まいは、住む人の命を守るものと思っていました。身体を、精神を、損なうために、家を建てる人、住まいを選ぶ人は1人もいないのです。
 造る人たち、提供する人たちは、このことを自覚すべきです。

船井幸雄.com コラム
2017.05.10(第77回)より